日々の雑感

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(2003年8月以前の日記)
Old Diaries



2004/3/2 (Tue) 俯瞰 〜 世界観は必要か? 1
一日中部屋に篭って本を読み、思索し、文章を書く。
そういう日が続くとどうにも息苦しくなることがある。
自分は一体全体何をやっているんだろうか。。。


 一儲けするため、あるいは世に自分を認めてもらうため、
 シンプルにそうやって認めてあげればいいじゃないの。
 何を言ったところで人間はそういうものなんだよ。
 「倫理」とか持ち出すのだって、結局人の関心を引くためじゃないの?
 自己欺瞞を重ねて生きるくらいならそんなの止めちゃいな。
 まとまった金を稼いだり、地位や名声を得れば楽だよ〜。
 ソファに寛ぎながら人生を語ったらいいじゃん。
 かのギリシャ人だって奴隷の上に胡坐を掻いて生きてたんだし。
 そもそもそんな風に気張っていい顔しようとするのは、
 周りの人間が怖いからなんじゃないの?
 それじゃ社会の奴隷みたいなもんじゃない?
 もしくはそうやって人を信じさせて教祖様にでもなろう、って魂胆?
 それなら結局のところ同じ穴のムジナってことだ。

違う。そうじゃない。
僕が探しているのはそういうことじゃないんだ。

 何が違うって言うんだ?
 嘘に嘘を重ねるうちに何が何だか分かんなくなってるんじゃない?

僕が探しているのは生を味わい尽くすための方法なんだ。
生っていうのはこの肉体と思考とに閉じ込められてはいない。
僕という存在は単に孤立した「個」ではなく、
直接的、間接的に関わってきた多くの人間から、
限りなく多くのものを受け取ってきたし、
それを消化し、受肉化し、そうして育てていく存在なんだ。
いや、それは人間だけじゃない、ありとあらゆるものが、
僕には流れ込み、そして流れ出していく。
単独にポツンとここにあるわけじゃないよ。
連続的な生命の流れそのものとして僕は在る。
その生の運動として「あるべき姿」を保とうとしているだけだ。

 はぁ〜、そいつは美しい幻ですこと。

違う、僕はそれを幻だとは思わない。
それこそが「現実」だと確信している。

 その割には随分と弱っちいもんだ。(笑)
 それにしても、まあ百歩譲って存在がその「生命の流れ」だとしても、
 「あるべき姿」っちゅうのはさっぱり分からんね。
 様々なものが流れ込み、流れ出していく、
 それはもう自動的な運動のようなものじゃないのか?
 あるがままを受け入れ、あるがままに振舞っていればいいじゃない?
 その時々に思うまま、気の向くままに生きていれば。
 それが生命の自然なあり方ってものじゃないのか?
 「あるべき」なんていうのは傲慢な言い草に聞こえる。

僕はそれをむしろ逆に考えているんだ。
僕らは生命の流れのなかに置かれているのだけれど、
それは宇宙の散逸の流れに逆らって「遡る」運動のことなんだ。
その意味で「あるがまま」に在るというのは非生命的だと思ってる。
実際のところ、僕らは生の断面断面で、絶えず行為の選択をしている。
その選択基準を誰もが持っているはずだよ。
或いは無意識的なものかもしれないけどね。
その基準のことを「あるべき姿」と言っていると思ってもらえばいい。
あるがままで良い、なんて言うとしたらそこには嘘があるし、
それは自分が神様のような気分で居るってことだよ。
自分のリアリティから離れて遠くから眺めているっていうかね。

 話が抽象的でよく分からんね。
 例えば腹が減れば食べる。SEXしたければする。
 いい生活をして楽をしたいから今日も休まず会社に行く。
 それでいいじゃない。あるがままで。
 何でわざわざ堅苦しい言葉を語るのだろう?

そこに自分の基準が紛れ込んでることに気付かない?
その基準が他の多くの人と共通していて分かりにくいかもしれないけど。
あなたにとっての「あるべき姿」は、煎じ詰めていけば、
自分の身体の欲望、俗に言う「本能」を満たし続ける「べき」だ、
という風になっているんじゃないかな?
僕らの生きる時代に広まっているのはそんな基準だし。
そうした基準は必ず世界観と対になって作られている。
生を思考と肉体という形で個体の中に閉じ込められたものとして捉えれば、
必然的にそういう価値基準に導かれざるを得ないのだから。

 さっきの「生命の流れ」の話に持っていこうとするんだな。
 でもそれは結局のところ幻じゃないか。

(続く)

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2004/3/2 (Tue) 俯瞰 〜 世界観は必要か? 2
人間は世界をあるがままに捉えることなんて決してできやしないんだ。
僕らは己の世界観というフィルターを通してしか世界を理解できない。
「個」が確かな存在だというのもあくまで一つの世界観にすぎないし。
自分の見ている世界が「あるがまま」だなんて思い、
それはそのままで良いだなんて思っていると、
理解がとても限定されたものであることを見失う。
僕らはいつもフィルターを掃除して、新しいのと交換し続けなきゃならない。
それが僕の考える「あるべき姿」の一断面なのだけど。

 お前が言いたいのは、結局世界なんて分からない、ってことだろ。
 そんなことを言い続けて何になるっていうんだ。何の役に立つ?
 それよりも日々を楽しく生きていることが大事だろ。
 いいじゃん。生きてりゃ。

僕らが世界観を更新し続けることは、
人間という種の存否に関わることなのじゃないかな。
動物が嗅覚や聴覚を磨き、周囲の環境を正確に認識することが、
その種の存続に決定的な影響を及ぼすというのと同じように。
彼らが進化の過程で環境認識のための感覚器官を発展させてきたように、
人間は世界観〜言語体系を発展させてきたのだと思う。

 そんなこと今も人類はちゃんとやってるじゃないか。
 科学技術はまだまだ発展し続けている。
 人類の知恵はまだ進化し続けているよ。
 何が間違っているっていうんだ?
 「生命の流れ」とやらを言い囃したところで、一体何が変わる?

世界観というのは本来一人一人が持っていたものだったんだ。
だけど現代において、それは誰かが具体的に担うというよりは、
バラバラに分割された専門知識の集積体として、
人類全体のネットワークとして保持していることになっている。
実際物凄い情報量だからね。簡単に全体像なんか理解できなくなってる。
確かにそれはそれで良いのかもしれないんだよ。
僕らはどんどん細胞のように、蟻のようになっているというだけで。
それぞれの狭い視野のなか、勝手にそれぞれの状況に専念すればよい、と。

 何か日和ってるみたい。
 それで一体何が問題だっていうんだよ。

問題はそれで人類がぶつかる様々な問題に対応できるかということ。
気になるのは、こうして「部品」のようになって行く中で、
人が段々活力を失っているように見えることなんだ。
ネットワークとしては強い相互依存の状態に置かれながら、
他者との共有の可能性、普遍性を信じられないという状況。
反動としての独我論が幅を利かし始めていること。
僕らはもはや統一的な世界観を持つことができないのだろうか?
僕は細胞のネットワークとして存在する自分の肉体のことを考える。
それは明らかに単なる寄せ集めではない。
個々の細胞は実は僕の肉体を形成するに足るだけの
マスタープラン、すなわち遺伝情報を持っている。
僕という存在は、その細胞一つ一つが「僕そのもの」であることによって、
しっかりと支えられているんじゃないかと思う。
その構造をそのまま持ち込むべきかは分からないけれど、
やはり人類もその個々の構成要素がマスタープランを持つことで、
維持されているのではないかと感じるんだ。

 そりゃまた大層なアナロジーを持ってくるな。
 でも考えてみな。インターネットの発達によって、
 今や膨大な情報に直ぐにアクセスすることができるんだ。
 その意味で一人一人がマスタープランにアクセス可能と言えるさ。

それはそうなのかも知れない。
だけどやっぱりね、断片的な「情報」と世界観というのは異なる。
全体像なんてもうイメージできなくても良いのだろうか?
僕らのマスタープランは架空のものとなっていないか?
僕らは空中楼閣の住人となっていないか?

 あぁクドクドと鬱陶しいねぇ。
 滅びるときは滅びるんだよ、人類なんて。
 あとはもう、与えられた状況を生きていくしかないだろ。

そう、それは分かっている。
だからと言って、諦めるのは生命の取るべき道ではないと思う。
僕らが生きる歓びを得るためには、
普遍的な世界観の感触を得ることが必要ではないだろうか?
不完全なものであっても、それをあるがままの世界に近づける営みが、
僕らの生きていく「べき」道ではないだろうか?

 段々疑問形ばかりになっていくんだな。
 そうやって勝手にもがいていれば?
 マゾヒズムが生きる歓びだっていうならそれも一つの価値観。
 もう知ったこっちゃねえや。阿呆らし。

世界は遠い。
僕は一体全体何をしているのだろう?

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2004/3/3 (Wed) 自由な魂? 1
昼過ぎ、再びバラバラになってしまっていた。
頭が痛く、喘息が酷くて呼吸が苦しい。
気分も悪くなってきた。
参ったなぁ、ここのところ身体が言うことをきかない。
精神的にもどんどん煮詰まってしまうし。

ともかく腹に何か入れようと思って外に出る。
ふらふらと自転車を漕いでいって、
吉野家で代替販売を始めた豚丼をかきこむ。
このまま帰って仕事をしてもなぁ。ほんとしんどい。
ぜつぼうてき。
気分転換したくなって当ても無く彷徨うことにする。

とりあえずダラダラと下鴨本通を上がって疎水の所で折れ、
住宅街を抜けていく。昔住んでいたあたりだ。
北山通のコンビニでペットボトルの紅茶とチョコレートを買う。
さてどうしようかなと、とりあえず比叡山の姿を仰ぎ見て確認する。
空は薄曇。くすんだ緑が近くに見える。
そして妙と法の字が刻まれた近くの山肌に目線を移す。
調整畑地の畝。大根。
20羽ほどの雀の群れ。カラス。
紺色のジャージの農家のオヤジ。
脱力。

あぁあ〜。またこんな狭苦しいところに心を追い込んでしまっている。
意味のあるもの、価値のあるものを書け、
そうやって自分のケツを叩いているけれど、
そもそもオレはそんなに偉いもんじゃないよなぁ。
ああ。
自由な魂が欲しい。空を自在に駆けるような。
世界の全てと心通わすことができるような自由な魂を。
小さな小さな己の姿を口惜しく思う。

昨日読み始めた見田宗助(真木悠介)の本、
「宮沢賢治」のなかにあった言葉を頭の中で繰り返す。
「存在の祭り」。幻想世界への自己解放。全肯定。
それは人にとって欠くことのできない経験だ。
それでもやはり人は現実へ戻ってこなければならない。

東へ、比叡山の方へ向かって。
曼殊院まで行ってみようか。

ふと歴史を考えてみる。そして経済のこと。
そもそも人が皆、自由な魂を持ちえたことなどあるのだろうか?
熱帯のどこか、年中食料を採集できるようなところで、
食っちゃ寝の生活をしていた人たちを想像する。
豊かさに包まれていれば、人は自由になれるのだろうか?
思考は素早く現代へ戻る。
ならば富を蓄積し或いは継承している人にのみ自由が与えられる?

資本主義の運動なるものは、
富んだものを益々富ませ、貧しきものを益々貧しくする、
そんなシステムを形成してきたようだ。
ならば自由は段々と限られた人にのみ享受されるものになっている?
生活に追われる者は、その不安を完全に解かれることはない?
いや、そのロジックは違う。
金が沢山あることによって不安から自由になれる者など存在し得ない!
でもそれはある程度必要条件になっているのではないか?
いや、むしろ失うことが必要なのだ。解放の最初のきっかけとして。

しかし、真の自由の感覚を得るのは恵まれた人だけなのだろうか?
文化に強く規定されてしまっている者が、
その文化を根こそぎ相対化し、己を宙に浮かす、
果たして自力でそれをできるものなのだろうか?
そこについてはほとんど絶望的だという感覚があるのは隠せぬ。
そんな人にとって「自由な魂」は抑圧か崇拝対象としかなり得ぬ。
それゆえ、真の自由の在り処を知ったとしても、
人は舞い上がり、舞い降りる過程のなかを生きる他無い。
さもなくばそれは新たな闘争の火種を生むことしかできしかない。

自由な魂とは、すなわち力の感覚を掴んだ魂。
だけど力に安住する者は、結局力に食い滅ぼされるのではないか?
歴史のなかで、分裂症〜パラノイアとなる者が時として必要なのだろう。
つまりは人身御供として。
だけどそれは今、この場面において、有効な戦略なのか?

そんな風に覚めた目で見切れているわけでも無いくせにさ。
弱き人間は、あくまで矛盾のなかで喘ぎ、
そうしてルサンチマンの喚き声を上げるのみ。
だってさ、見てみなよ、
四条あたりで買い物してる人を見てたって、なんか皆幸せそうじゃない?
一体何が問題だとほざいているんだろう?
あぁ。

ペダルを漕ぐうちに思考は少しずつ沈静化していく。
次第に多くの周囲情報が体内に取り込まれるようになっていく。
修学院の駅のところで叡山電鉄の線路を渡って白川に出る。
曼殊院へ登る坂は急勾配だ。
ママチャリをジグザグに反転させながらゼイゼイ言って漕ぐ。
このぐらい自分を苦しめてやんなきゃだめなのよ。
自分の身体が存在していることにさえ気付かなくなってるときは。

(続く)

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2004/3/3 (Wed) 自由な魂? 2
(続き)

家々の庭先には紅白の梅や桃の花が姿を見せている。
盛りを過ぎて萎れた蝋梅がくすんだ黄色をしてぶら下がっている。
坂を上りきったところで一息つき、お茶を飲む。
林の合間からは街並みを僅かに望むことができる。
辺りには観光客の姿もなくただひっそりと。
一瞬たまには境内に入ろうかとも思ったけれど、
500円かぁ(当たり前の相場だな)、や〜めた。

北へ向かって坂を下りる。比叡山はぐんと近づいて。
音羽川にぶつかって左に折れ、川沿いの未舗装の道をガタガタ下る。
小さな段々畑、人参(?)の葉、三分咲きの立派な白梅。
橋を渡って細い路地を行き、修学院離宮の門前へ出る。
いい加減帰ろうかどうしようかと思いつつも、さらに北上してみようかなと。

赤山禅院の門前を駆け抜けて、それから再び急傾斜を上がって檜峠。
この辺に立派な邸宅が立ち並んでいるのは離宮と関係があるのか?
峠の上からは比叡山がもう間近に望める。
見渡しの良いところには墓地。線香の香がプンと鼻をつく。
中から出てきた婆さんが、よっこらしょ、よっこらしょと
呟きながら歩いているのを横目に見ながら、再び坂を下る。
宝幢寺の脇を抜ける。ん、「幢」ってのはどういう意味だ?
集落の合間を縫ってゆるゆる下り、八瀬への入り口を掠めて折れると、
やがて道なりに三宅八幡の駅にたどり着く。
うん、この道は確かに昔チャリで走った。記憶がうっすらと蘇る。

線路沿いに下り、氷室山の縁を伝って行って宝ヶ池の駅。
踏み切りを渡るとそこはもう車通りの激しい白川通。
それを渡れば馴染みの道に出る。宝ヶ池子供の楽園のところ。
いつものように法の字=東山を120度ほどぐるりと巻いて帰途に着く。

こんな小旅行はお手軽だけど気分がずいぶんと晴れるもの。
高々1〜2時間のこと。
この時間を惜しんで仕事をするなぞ全く愚かしいことではある。
でもそれが分からんのよね、視野が狭くなっちゃってると。
動くのが面倒くさい、って、そいつに色々言い訳を乗っけて。
心を閉じはじめると、自分を溶かしてくれるものから遠ざかる。
気持ちは凝固していくばかりで拡散できなくなる。
心と身体が離れてバラバラになって。
あ〜あ。
自由な魂はきっと面倒くさがる人間には得られないんだ。
でも一歩、その一歩さえ踏み出すことが出来るなら、
ほんのひと時なりとも、存在の祭りに参与できるというのに。
舞い上がれぬとき、地に足着くことの真の価値は分からない。

心を解し、身体を解し、存在を解せ。
而して再び現実へ。

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2004/3/12 (Fri) ごろごろごろごろ、ごろごろごろごろ
会社を辞めて自分を宙に放り投げてから、
すでにもう一年以上が経つ。
僕は相変わらず旅をしている。
そう、まだ旅をしている。
目的地も見つからないままに。

 ただ生を見つめ、そして生きる。

そうやって言うのは簡単だけれども、
ふと気付くたびに僕は何かに囚われているのさ。
それを切り捨て、切り捨て、素裸になって、
こんな風に転がっていることが、
一体全体どういう意味を持つのかさえも
本当のところはよく分からないままなのに。

 一番大事にしてるものをこそ炉にくべよ。
 金も職も技術もプライドも見てくれも愛も言葉も理論も何もかも。
 自分にとって本当に大事だと思うものを捨てよ。
 真に価値あるものは業火を耐えるから。
 捨てることの出来ない人間はそれを得ることがない。

でも誰が何処からそんな偉そうなことを言えるだろう?
己の心は鋼のようにはできていないさ。
気付けばまた何かに必死にしがみついている心を見出すのみ。

無力で限界だらけでどうしようもない自分。
卑屈になるのではなく自然にそんな感覚が湧いてくるのは、
裸の自分と本当に向かい合うことができたときだけ。
意識や思考を「外」へと転移させて逃げるのではなく、
弱き己のなかにどれだけ留まっていられるか。
そこにちゃんと戻ってこれるか。
生はそこに懸っている。

 何度だって同じ過ちを繰り返しながら、
 そして転がり続けるんだ。
 いつだって転がり続けてきたし、
 今も、きっとこれからも転がり続ける。

辿り着くところなんて存在しないのかしら?
あるのは一時避難所だけ?
あとはただ安らかな死が待っていてくれるだけ?
それじゃあ虚しいと思う?

。。。

2,3日前、自分が自縄自縛の罠に掛かっていることに気付き、
夕暮れ時の高野川の河原を泣いて歩いた。
ボロボロと流れる涙を止めることもせず、
ただ頑なな心を打ち砕いて心を洗う。

世界に欠けているものなどない。
誰も何も非難する必要などないさ。
自己主張をして人に認めてもらう必要も無い。
そんなところで感情的になるなよって。
生活の不安に追われれば、
それがかえって生活を不安なものにするだけさ。
力を抜いて、そう、ただ生きればいい。
息を吸い込んで、吐いて、空を見る。そして比叡。
カタルシスはそんな風にやってくる。

以前書いた「草にすわる」の書評を思い出す。
結局のところ、生とは躁と鬱との繰り返しなのだろうか?
こんな風に何度もカタルシスを繰り返しながら、
振動する波のように揺れて生きていくのが僕らの宿命?

そうとも言えるし、そうでないとも言えそうだ。
カタルシスそのものは決して目標に置いちゃだめだ。
その途端、生は単純振動に落ち込んでしまうから。
外部環境からの揺動によって引き起こされる受動的な運動。
快楽を求めそれを充足させる機械的な反復。

転がり続けることが大事なんだと思う。
そこに生命たらんという意志がある。
あくまでもその「結果」としてカタルシスはやってくるのだ。
意志によって脱皮し続けるということ。
己がしがみついているものを捨て続けること。

凝固させるもの(恐れ・知)、
拡散させるもの(力〜カタルシス・老い)、
両者に掴まることなく乗りこなせ。
空を飛ぼうと、深海の底に沈もうと、
それでも転がり続けること。

今はただそれだけ。

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2004/3/13 (Sat) 煙草と喘息 1
煙草を止めて十日になる。
喘息の症状があまりに酷くなってしまって
一本吸うごとに呼吸困難になる始末で、
さすがにこのままじゃヤバイと感じたんだ。
先週ようやく腹を決めて病院へ行き、
喘息であることを正式に確認したうえで、
吸引薬なんかを処方してもらった。
当然のことながら煙草は厳禁って念を押されて。
おかげで今は呼吸も楽になってきた。

僕にとって煙草を吸わないということは
生活そのものの大転換を意味する。
習慣というものがかくも自分の奥深くに定着し、
様々な形で自分を規定していることに改めて気付く。
長い間、何をするにも切欠としての煙草が必要だった。
朝起きて動き出すとき、出掛けるとき、
人に話しかけるとき、落ち着いて思考をまとめたい時。
今、何かに集中するための切欠をつくれない気がして、
時折無性に煙草が恋しくなる。
それは自分で自分を制御できないことに対する
言い訳に過ぎないかもしれないし、
ニコチン欠乏が僕にそう思わせるのかもしれない。
いずれにしても13年に渡って自分のリズムを維持してきた方法を捨て、
新しい制御システムを作り出すのは中々容易でない。
試行錯誤が続く。

ちょっと以前、一月の半ばから半月程煙草を止めていた。
その時は身体の調子が悪いからというネガティブな理由ではなく、
むしろ煙草からは大切なものを充分に貰ったし、それに感謝しつつ、
卒業して新しい道へ進むべき時が来た、という風に考えて止めたんだ。
何度かの練習禁煙を経て、いよいよこれで最後と思い、
数時間に渡って一本の煙草と思い出話などを語り尽くした。
「力の感覚」を与え続けてくれたことに感謝し、
もはやそれが自分に内在化され、定着しているにも関わらず、
惰性で「消費」を続けるのは煙草に対して無礼というものだし、
その無礼さが結果的に自分に害悪をもたらしていると感じられた。
煙草の木が植えられ、育ち、葉を摘まれ、輸送され、
機械で裁断され、紙に巻かれ、パッケージに詰め込まれる様を想像し、
それを無意識に造作無く吸ってはもみ消し続ける自分を思って、
つくづく申し訳ないなぁ、と。
それじゃ煙草は可哀想。恨みも買うさ。
いい加減に吸うくらいなら吸うなよ、と自分に言い聞かせた。

それはとても上手くいった。
それまで48時間以上の禁煙に成功したことは無かったのだけど、
その時ばかりは欠乏感とかそういうのがなくて、
身体の切れが良くなったり、そういう新鮮な感覚をただ楽しんだ。
もう二度と吸うことはないな、と本気で思っていたくらい。
ところが結局吸っちゃったんだな。
一体それは何故だったか?

喫煙とは自分を収縮し、凝固させるための手段と言える。
呼気を薄め、血管を収縮させ、血圧を上げ、胃を収縮させ、
そうした身体的、物理的な作用が心理面にも影響を及ぼす。
弛緩状態(拡散)から緊張状態(凝固)への強制移行装置。
世界にそして時間に淡々と流されていく我が身を引き寄せ、
しっかり制御しているという手応え(錯覚?)を与えてくれるのだ。
だが喫煙が習慣として定着したとき、或いは中毒化したとき、
弛緩状態はもはやリラックス状態として受け止められず、
緊張状態にある自分を正常な状態と認識するようになる。
だからこそ食後の満ち足りたときや酒で血管が弛んだとき、
それを補正・調整するように煙草を吸いたくなるものだ。
幾度かの喫煙・禁煙の繰り返しの中から僕にはそんなことが見えてきた。

2月に再び煙草を吸い始めたことは、
自分の中で膨らんでいた幻想を壊すことに関係していた。
躁状態にあった自分の「拡散し切っていく」感覚を危うく感じたのだ。
「全」に解け去ることなく「個」を守ること。
拡散することへの恐怖。凝縮、凝固への強い志向性。
それはきっと身体に染み付いた喫煙習慣によって支えられた感覚だ。
そしてまた、「書く」という行為は僕にとって凝固へ向けた運動であり、
煙草の助けを強く必要とする場面なのであった。

(続く)

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2004/3/13 (Sat) 煙草と喘息 2
(続き)

腰を据えて「書こう」と決めたとき、
僕は緊張感とともに再び煙草に火を付けた。
身体全体がギュッと音を立てそうなくらいに縮むのが分かった。
動悸が早まり、手足の先が震えた。
こんなものが身体にいいはずない。明らかに死を呼び寄せてる。
しかもそれはインフルエンザに罹り、喘息の症状が現れはじめたときだった。

馬鹿げた、奇妙なことではあるのだけれど、
呼吸が苦しくなるほど煙草が欲しくなるんだ。
当然ながら煙草を吸うと喘息は悪化する。
長い間、嫌なことや面倒くさいことを抑圧するために煙草を吸ってきたが、
今回はそれが発散(正帰還)ループという形に接続されてしまった。
それは「自傷行為」としか言いようがなかったが、
僕はそれさえ含めて矛盾を受け入れることなのだ、
と積極的に肯定したのだった。

「個」と「全」
「凝固」と「拡散」
その両極を揺れ動きながら均衡をとることは生の本質。
「全」に飲まれそうなときには「個」に必死でしがみ付き、
「個」への深い執着があるときには「全」へ身を投げ出すこと。
確信犯として身体ごとそこに賭けろ、と。

ただどうもね。
言葉としてはいいけど、実際の行為に際して僕は少し苦しくなっていたか。
過剰にストイックなところへ行っていたというか、
論理にしがみ付いていたというか、
つまりは自分が変化することを拒んだという風に見える。
「個〜凝固」の方へ寄り掛かりすぎ、だったのかな。
まぁ実際のところ、身体が弱っているときに、
そういう傾向を避けるのはとても難しいのだけど。
まして先のことに関する不透明感、不安は何も消えた訳じゃないし。
でもここで改めて均衡点を探さなきゃしょうがない。

煙草を止めること、
それは均衡を取る「方法」を変更することであると同時に、
「均衡点そのもの」の変化を受け入れることである。
どこを安定な点だという風に「感じる」のか?
そうした感性自体を変化させることは、
身体そのものを作り変えることを意味するし、
決して簡単な話じゃない。
手間暇かけて習慣形成をしていかないと。

健康への不安(〜死への怯え)という要因によって
煙草を止めざるを得なくなるのは、
何というかちょっと癪な話ではあるのだけれど、
せっかくだからもう少し色々工夫してみるべきかな。

あぁ一服したい。

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2004/3/17 (Wed) 生活の基本的なこと
窓を開け放って風を入れる。
遅れて咲いた庭の沈丁花の香が微かに漂う。
それにしても3月とは思えないような生温い風。
今年は桜が例年より10日も早く咲くというが、
それが納得できるような暖かさだ。
ともあれ過ごしやすい晩ではある。

最近ちょっと自分を持て余し気味。
高校生の実験補助のバイトも今は完全に途切れ、
一人部屋に篭って当て所なく思考を彷徨わせる日が続く。
こんな風に抽象的なことばかり考えているのは、
心理的に健全な状態とは言い難い。
しかもそれで「まとまったもの」を書く作業が進んでるか、
って言えば全然そんなことないし。
胸を張って「これがオレの仕事だ」などと言えるものもなく、
あ〜あ、一体何やってんだろうなぁと、
ゲンナリすることはしょっちゅうだ。
まあそんな生活をもう半年以上もやってる訳だけど。

そんななか、バランスをとるためというか気を紛らすためというか、
生活の基本的なことにちょっと気持ちの重心を移している。
料理や掃除、あとは家計簿をつけたりとか。
主婦(主夫)の仕事を少しずつ学んでいる感じで。
これまでも結構長いこと一人暮らしをしていたけれど、
今程「生活」に意識を向けたことは無かったように思う。
料理なんかも今までで一番真面目にやってるし。
そういう「当たり前」のことをきちんとしてきた人から見れば
いい笑いものにされちゃうレベルではあるけれど、
自分としては随分意識の持ち方も変わってきていて、
それが何というか新鮮で面白い。

何しろ話にならないくらい常識がないんだ。
スーパーで買い物するのだって僕にとっては毎回勉強で、
どんなものが並んでいるか、相場は、日持ちは、
みたいに少しずつ覚えたりしていって。
ふらふらしながらちょっと先まで献立計画を考えてみたり。
時折ボーっと野菜やら肉やらの棚を見渡しては、
ホント色んなものが色んなところからやってきてるんだなぁ、
と妙に感慨に浸って立ち尽くしたりしながら。
想像しだしちゃったりすると凄いじゃない、だって。
変な奴だと思われてるかもしれないけど。
1時間くらいふらふらしていても全然飽きないくらいだ。
ゆっくりゆっくりとではあるけれど、とりあえず学習中。

下宿での料理はバタバタと。嫌が応にもマメになる。
流しは部屋には無くて共用だからいちいち階段を上り下りして。
冷蔵庫も隣の人のを一緒に使わせてもらってる。
しかも腰を「く」の字に曲げないと作業ができないような
低い位置にコンロが一口があるだけ。
といった具合で、お世辞にもよい環境とはとても言えない。

経済的な観点から言えば、確かに外食より安くはつくけれど、
そうして自分が動き回ってる時間は馬鹿にはならない。
一体僕の時間給は幾らだろう?
サラリーマンとして働いていた頃のことを考えて思わず苦笑いする。
それでもこういう時間こそ、抽象的な世界に篭りがちな僕を
少しでも現実の方、身体の方へと呼び戻してくれるんだ。
それ自体がとても大切なこと。
掃除なんかしていても同じだけど、
自分自身の生活へ直接的に向かう仕事、
つまり疎外されていない労働は、金に還元され得ぬ価値を持つ。
心を豊かに保つためには、できれば自給自足が望ましい。
それが簡単に許される社会状況ではないのだけど。

例えば東南アジアやアフリカの自給作物用農地は
今でもプランテーションの展開によって破壊されていく。
耕す土地を失った者達は身売りを余儀なくされ、
次々と資本主義経済に飲み込まれていくんだ。
同じ構造。あきれるほど同じ構造。
そりゃ彼らは自給自足していたときと違って、
幾許かの「金」を手に入るだろうさ。
だけどそれで彼らの生活が本当に豊かになったと言える?
彼らの低賃金労働と、かつてその暮らしを支えた土とから、
着々と送り込まれる安価な商品の波。
そうしてスーパーやコンビニには格安の商品が並ぶ。

僕らはいつだって自然をしゃぶり、人の血を啜って生きている。
そしてやがて僕ら自身もしゃぶられ、投げ捨てられる。
いやそれはもうとっくに始まってる?

一時間掛けて料理なんかするより、
コンビニ弁当を買った方が経済的だ、
そう思ってしまう自分の心の貧しさがある。
今更自給自足もないものだって?
濁流がただ僕らを押し流していく。
この流れは誰にも止められない?
実際のところ、それは「面倒くさい」という気持ちの積み重ねか?
少し動き出してみたら、それがずっと心地良いかもしれないし。

ま、そんな大きな話にすることもないのかな。
心がそして身体が本当に求めるものを探そう。

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2004/3/27 (Sat) 転轍(てんてつ)
風はまだ少し冷たいけれど陽射しはとても暖かな日。
空気は澄んで、今日は山が近くに見える。
こんな日は大文字を見るたびにちょっと嬉しくなる。

川端通沿いの桜もチラホラと綻びはじめ、
強い風は柔らかな柳の若葉を揺すぶっていた。
風は南向、つまり川下方向へ吹いていたのだけれど、
小さな鴨が一羽だけ水面から飛び立って、
その風に逆らってバタバタともがきながら、
ほんの僅かずつ前に進んでいるのが目に入った。
僕も風に逆らってチャリを漕ぎながら、
喘息のせいで息切れのする自分を情けなく思って苦笑い。

土手の傍にはユキヤナギとレンギョウが咲いていて、
思考を止めてちょっと意識さえ向ければ、
彼らが随分と賑やかにしていたことに気づくんだ。

。。。

急なことだが4月から高校で物理の先生をすることになった。
昨秋からバイトで実験(研究)の手伝いをしていたが、
今度は常勤講師として通常の授業を持つことになる。
ちょうど一週間前、突然予期もせぬオファーをもらい、
3日以内に回答を求められるという慌ただしい話ではあったが、
何か流れみたいなものがあるように感じて受けることにした。

これが半年前ならきっと断ったろう。
僕にはやるべきことがある、
呑み込まれる訳にいかない、って思ってたから。
心理的にバランスを取るためのバイトくらいならいいけど、
そっちを本業にしたらアカン、と考えていたし。
でも今の僕にはこの話がタイミングよいという風に感じられた。
それは一体何故だ?

丸一年に渡って社会とは一定の距離を置きながら、
生きるとはどういうことなのか、
自分が一体何を求めているのか、
そんなことを見つめ、考え続けてきた。
そうして考えてきたことを集約して、
「体系」と呼べそうなものを創り出すことを目指してきた。

が、その営みは必ずしもスムーズに進んでいない。
欲張って一遍に表現したいなどと考えているうちに、
砂粒がするりするりと掌から零れるように、
自分そのものが瓦解していく感覚を持つときさえある。
ましてやこの二ヶ月ほどの間、喘息による呼気の薄れと、
ニコチンの離脱症状との板挟み攻撃にあって、
思考を集約していくこと自体が難しくなっている状況だ。
何だか自分が停止してしまいそうな、
そんな感覚が出ていたのは確か。
新しいリズムを模索していく必要を感じてはいた。

結局これって「逃げ」なのではないか?
どこか安全なところに崇高な「志」みたいなものを隠して、
ズルズルと流されていくだけなのではないか?
いざ仕事が始まれば忙しさの中に投げ込まれるし、
自分の思考の精度を保つことは難しくなってくるはず。
いいのか?それで?

自分の中にそういう迷いはあったし、今も無いとは言えない。
とはいえ、このままの形でもう少し粘ったところで、
今の自分の状態のままでは、モラトリアムの感覚に浸るうちに、
生命力を弱めて行く可能性の方が高いように感じられるのだ。
そんなところから吐き出される言葉は力を持たぬ。

今の流れに留まるべきか、一旦舵を切るのか。
どっちが「甘え」か、それは案外難しい問いだ。
先のことは実際のところ分からないさ。
とにかく賭けろ。
罠に陥らず、己の生をしっかり掴み取っていけ。

。。。

なんてことを考えながら、
夕方から大根を炊いてみた。
だしをたっぷりと効かせてゆっくり煮て。
これが中々いける。

ふぅ。
生きよう。生きよう。

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