日々の雑感

はじめに
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(2003年8月以前の日記)
Old Diaries



2004/8/8 (Sun) 思考メモ1
考えていたこと 〜カウフマンを読みながら…

・化学反応 自己触媒反応のシュミレーションは面白そう
  → 仕事したがっているオレが居る。

・I にガイアの説明をしようとするが余りにファジーで、
言語能力の低下している自分に気付く。
生徒に授業をするときも同じような症状を呈していないか?
オレには「教える」能力なんてないという気がする。
相手によってはツボがはまり、異様なほど滑らかに
明快な論理で話すことが出来るというのに、
相手にビビッたとたんに蛇ににらまれた蛙のように
なってしまうところがある。
それがオレの不安定さの一端。

・再びカウフマンの本より … 「ボタンとひも」の数学モデル
ある閾値を超えると、一気に全体ネットワークが形成される。
〜Percolation
そこから着想されるのは、社会の中に置かれた個が
どれだけ自立した存在でありうるのか、ということ。
何故大きな流れに抵抗しようとするのだろうか?
その核にあるものは、資本主義的な、
所有をベースとする個の観念なのではないか?

---

煙草を一本。
吸っているときも爽快な感じもないし、
吸い終えてからの気だるさは酷い。
喘息の影響だと思うけれど、
やはり息が苦しくなるのは避けられぬ。
良いことないじゃない?
お手軽に超越の感覚を得ることができたのは既に昔。
今はこれはオレにとって毒でしかないのか?

毒、毒、毒、
何故オレはそうして毒を求める?
罰、罰、罰、
自己肯定の出来ぬまま、
何事も成し遂げ得ない欲張りなオレは、
再び自罰に向かっているのだろうか?
自分が天才となることを求めている?
社会と、世界と、宇宙と一体であることとは?

Fountainheadの翻訳が出版されたようだ。
個を徹底する中で生まれ来る普遍を求めながら、
オレは自らの力の無さの中に溺れ、窒息する。
エリスワースのような、人は弱く、盲従することの中にこそ
喜びを見出していくべきであるという主張は、
人間が動物であり、
一個の物理現象に過ぎぬという事実を前にして
否定することが出来ないのだけど、
ハワード・ロークのように生きられぬ自分を口惜しいと思うことは
いかんともしがたい。
それはルサンチマン?
空虚。

---

弱き弱き己を呪う。
拡散して行きそうな自分を
無理やりつなぎとめようとして
凝縮を繰り返してきたが故に
身体はその波に洗われ、磨耗してしまった。
「自分」なるものにしがみついているつもりはないけれど、
結果として、現象として起こることといえば、
反社会的な跳ね返りと、愚にもつかぬ自己主張と、
そういうところに堕ちていやしないか?
なんてこと、なんてこと。

こつこつと目の前のことを処理していれば良い。
部品のようになってしまえ。
大きな話は何処まで言っても幻に過ぎない?
苦しいなぁ、どうやって生きればよいのか?
方向などとうに見失ってしまった。
自ら道を定めて歩いてゆくしかないというのに、
どっちを向いても答えなどないという状況に
げんなりしてしまうのは、そう、
己の弱さに違いない。

分からないのだ。分からないのだ。
この一歩を踏みしめていくしかないのだ。
小さきもの。この小さきもの。

---

さてこれからどう生きたものか?
どっちへ行っても道が塞がっているという感覚では
呼吸も苦しくなるばかりだろう。
もう一度、ちゃんと立ち止まって、
自分が何処へ行きたいのか
ちゃんと心に問わなければなるまい。
楽しくHAPPYにいけばよいじゃあないか。
ルサンチマンに共鳴するのではなく、
明るいものを素直に受け止めて生きたい。

さてどうしたものか?
オレは他者のルサンチマンを食い物にして生きてきたか?
それを許し、ポジティブな方へ向けさせる、
そんな幻想を与えて生きてきたのではないか?
すなわち、エリスワースのようなことをしてきたのではないか?

階級があるのだ。
そうしてオレは一歩前にいる分、
一つうえのレベルから世界を見ている分、
人に対して余裕を持ってアドバイスをし、
批判をすることで自分の存在意義を確認してきたのではないか?
そうしたあり方を捨て、アガペでなく、タナトスでなく、
エロースを追い求めること。
果たしてオレにそれが可能か?
何処へ向かうのだ?
何を語るのだ?
語ることがあるのか?
研究すること、知りたいこと、それは何だ?

---

*物理を勉強しなおすこと → 論文を書くこと
 計画的にきちんとノートを取りながら…
  ・非平衡の科学
  ・マクスウェル・場と粒子の舞踏 → 数学・筋トレみたいなもの?
  ・全体性と内臓秩序 → 予備知識が必要
 焦点を絞らないと勉強はし切れないのだ。
 光のエントロピー、個と全、量子場のエネルギー、
 情報エントロピーの理解、システム論、
 解析力学と量子力学の復習

*言語による展開
 問題としているテーマ → 倫理(経験論的に)
 生きていくうえでBetterな選択を与える基準群
 個と全、資本主義

大洪水になってしまわないように。計画を立てよう。
昨年の今頃、計画を建てていた。
今は何処に居る?何を出来たろう?

自分にできることをやっていくしかない。
大風呂敷 → ラフスケッチを描け。
厳密な解ではなくてよい。仮説および研究計画書。
直観的に、今、何を見ているのか?

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2004/8/10 (Tue) 思考メモ2
思いつくままに。

 − 現代人は「個」と全体への従属とのバランスを崩している

 − そのバランスとは、種としての生存の持続と「進化」を効率良く行うことと結びついている。

 − 種の進化は競争における勝利ではなく、周囲環境とのカップリング形態のドリフトである。

 − 「個」の感覚は所有とともに現れる

 − 所有とはナルチシズムの肥大ではないか

 − 一見集団に盲従しているように見える者は、無意識下では「個」の強迫のもとにある。

 − 生命とは捉え方によっては単なる必然的な物理化学現象である〜散逸構造

 − 運命論はしかしながら正しくない

 − 複雑性により自由度が生まれてくる

 − 倫理を持ち、自己を律することは「自由」である

 − 宇宙は孤立した粒子や「個」の集合体ではない

 − シンクロニシティは存在する

 − 「個」の記憶はばら撒かれ、宇宙に記憶される

 − 死や滅びは恐れるものではない
     〜 それにしてもじゃあオレは何故色々なことにビビる?身体!

 − 資本主義とは生命活動の外延でしかない〜光合成と同様の活動

 − 個の拡大、自己実現も正しい面を持っている

 − それは進化と関わる

 − 多様性を許容できぬところに進化はない

 − 法律やルールに従った上での「多様性」「自由」は存在しない

 − 生命は進化(適応)し続けなくてはならない
     〜 あるいは滅びを受け入れるか?

 − 確信犯で生きること、自覚を持ち続けるということ
    そうした「西洋的」なスタンス、すなわち「倫理」の感覚は
    進化を有利に進める 〜 周囲環境を良く見ている?

 − 人間には階級が存在している ←「認識として」
     〜 知の階層/進化の度合い?
    これは単なる記述であって、ルサンチマンと結合してはならない

 − リーダーシップを取るものがある方が進化は効率的か?

 − 人間の身体の協働作業をイメージせよ

 − 階級=役割分担 〜 価値の多様性?

 − 相互に関わりあい、有機的に働くシステムが望ましい

 − 「情報」とは低エントロピーの缶詰のようなものだ

 − 生命は(宇宙は)散逸構造の中で低エントロピーをつくる

で、こうしたことを分かっていると何の役に立つのか?役に立たないのでは意味なし。

 − 人は世界描像を必要としている
    =全体の中でどういう位置にあるかを知る、すなわち鳥瞰するということ

 − 全体イメージ・鳥瞰図を得た後は自分の足で立って再び歩かなくてはならない

 − 鳥瞰だけをしているのは不健全であり、また周囲に害悪を及ぼす。
   あたかも自らを神のごとくに錯覚している → 死の恐怖から逃れることができない

 − 生徒が受験をするときゲーム感覚であるのは当然
   大人が受験に大真面目になるのは滑稽だ
   自らが教える内容について研究を続けていないのは駄目
   
 − フィードバック構造とフィードフォワード構造がある。
 
 − DNAが形成されるように、倫理が形成される
 
 − 現代の情報はどこに蓄えられ、誰が担っている?

一人の人間が全てを知ることは不可能。
情報量が膨大になってくるにつれて、
ネットワーク的に担われる情報が増える。
一人の人間は一個のシナプスとなる。
Giant(人間社会!)の頭脳は何処にある?
細胞の場合DNAという形で、
個々はフィードフォワード構造を維持しながらも、
細分化した形に発現し、フィードバック的に在る。
現代の人間は?
文化はある。
犬、猫のように刷り込まれたパターンを持っている。
それゆえそこについてはフィードフォワード的???
折りたたまれた歴史がそこにあるかどうか。
落ちて行っている情報が多い気がするよ。
ノイズばかりになっていく。
それでも歴史は刻まれ、それは宇宙に記憶される。

自分が何処へ向かっているかなんて分からない。

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2004/8/17 (Tue) 思考メモ3
どう生きていくか、といくこと。
現在の仕事は消耗が激しすぎる?
自分がやっていることに意味を感じとることができるならば、
そんな風には感じないだろうに。
逆の方向へ向かおうとする心がある。
それは怠けようとする心なのだろうか?
違うと思う。
何かが間違っていると感じるオレが居る。
そうしてその間違ったものに加担している自分が許せないのだ。
そう、そうに違いない。
ところが、何が間違っているのか、となるとそれが簡単でない。
ただジリジリと苛立ちだけを奥深くのところに溜め込んでいく。

今、オレが何をしたいのか、ということ。
働きたいと思う。
オレを酔わせてくれる構造のなかで、
目一杯に、不貞腐れずに、働いてみたい。
が、「酔えない」方にも問題があるのではないか?
自分が表現しようとしていること、
整理しようと思っていること、
「美しいもの」があるのではないのか?
何故そこに没入できぬ?
物理の勉強をして、論文を書くという話は何処へ行った?
解析力学や量子力学や電磁気学を再びきちんと学んで、
その武器を鋭く磨こうという気持ちはどうしてすぐに萎える?
周囲に起こる出来事に影響されすぎなのではないか?
もっと鈍感に、倫理的に、
フィードフォワード的に生きていけばよいのではないか?
どうすればそれをできる?
思考が内に向かって閉じないように、
具体的なものを、具体的なことを考えていく方が健全化できるはず。
まてまて、それはフィードバックのみに行くということか?
うむ。弁証法的なのだ、やっぱり事態はいつだって。

オレが守り抜こうとしているもの、
ヒステリックなまでに固執し、
外部との間に摩擦を引き起こしているのは何?
それは「個」への執着でないとしたら何だというのだ?
全体がその有機性を、そのしなやかさを失い、
バラバラに拡散していくとき、
それが滅びつつあると見るのはオレの自己保存の感覚ゆえでないか?
そこでオレが「自己」と呼ぶのは物資的な身体というよりも、
文化としての抽象身体を指しているだろうけれど。
それならば再び待て、守ろうとしている「文化」とは一体何なのだろうか?
それはオレに属しているものか?
オレはそこに、そちらの側に立っていると言い切れるのか?
「知」とは?
手渡し、手渡される、その媒体は一体何なのか?
ペネトレータと森岡なら呼ぶ。
それが粘液状にそこらじゅうに張り巡らされるとき、
そこには有機的なシステムの成立の可能性があるのではないか?

普遍性。
安易に普遍性を語るなかれ。
宙を舞うものはやがて落下点を見失ってしまう。
国家主義と狂信的な信仰と。
神よ。
普遍を濫用しているが故の罰か、これは?

真に普遍なるものを見んがためには、
再び己の身を普遍から最も遠いところに
置かねばならないのではないだろうか?
そういう弁証法が機能しているのではあるまいか?
教師をしても、物書きをしても、
普遍の仮象を語らねばならない仕事なのではないか?
皆が安易に飛びつくことが出来るような、
メロドラマのような、飴玉のような、そんな虚構。
だめだ、だめだ、だめだ、だめだ。

自分をもっと引き剥がさなくてはならない。
神から離れよ。
そうして再び己の身の丈を生きよ。

こうして書いていることもとてつもなく抽象的だ。
矛盾を受け止め、螺旋を描いていくように。
再び同調してよいのではないか?
それに。

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2004/8/20 (Sat) 思考メモ4
昨日のこと。
学校では一日図書館とマルチメディアの当番だった。
予習をしようと思ったけれどヤル気も出てこない。
むしろ溶出していきそうな自分を感じるばかり。
I、MN、MKらと話をした。煙草は数本。
キルケゴールの「死に至る病」を読み続けている。
それからノート2枚ほど、教員を辞めるということについてダラダラと書く。
ナウシカ1、2巻を読む。
ピアースのサイバネティックス・情報理論の本の続きも読む。

ぼんやりと時間を過ごしながら、
どうしようもなく脱力していく自分を感じる。
今まで意識は辞める、気持ちは仕事を続ける、
という風だったのが、ぷつんと切れる。
辞めてしまえ、と。
嘘をつき続けている感覚。
絶望が常態化するなかで、強情に自分であり続けようとする病。
神から最も遠いところへ行く。

親父が再び仮想敵となる。
「社会と折り合いをつけていく」、ということ。
オレにそれが出来ずにいること。
ここで仕事を放り出して、「逃げて」、
オレは一体何処へ行くのだろう?
再び罪悪感、恐怖の感覚をこの身に抱え込むことになろうか?
怠け心?
そうして再び自分を責めてしまうのだろうか?

今の課題は何か?
何故教員を辞めようとするのか、
その理由を論理的に(!)整理すること。
それは同時に、校長に話をするときに備えることにもなる。
全てを人に語る必要はない。
だが、自分としてはできる限り明確に、
自分が何を求め、何から離れようとしているかを
意識できていなければならないだろう。
さもなくばただ崩れ去るだけ。

いや待て、そこで崩れることを恐れるのが、
そもそもオレの病の形なのではないか?
過剰なまでに周囲を気にしてしまっているということ。
親父にはその感覚は分からないだろう。
さりとてその親父から埋め込まれた文化、
(彼のみからでなく、社会、自分が関わってきた社会から
流し込まれた文化というべきか)
それがオレを竦ませる。

オレは駄目な人間、
オレはダラシナイ人間、
苦労を知らない人間、
そんなことを言われたところで、
オレに何か出来ようか?
ただ自己嫌悪の感覚をさらに強めるばかり。
そいつがまさにオレが乗り越えようとしている、
あるいは脱しようとしている、当のもの。
オレがそれゆえに正常な仕事を出来ずに居る
原因となっているものなのに。

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2004/8/30 (Mon) 決断〜自由へ
心を決めた、あとは前に進んでいくのみ。
わが道。
自由なるものはかくも心踊るものか!
先の見えぬ、そう全く見えぬところに
この身を放り出すということが
この私には必要なことなのだ。
この身体が求めるものであったのだ。
社会という名の鎖を引きちぎり、
安全帯をかなぐり捨てて高所を歩む。
逃げるのではない、挑戦なのだ。
雁字搦めに社会に規定された
弱き弱きこの身を
ただ風にさらして
生きよ、生きよ、生きよ。
それがお前の在り方ならば
窮屈なところに身をかがめて
収まってみようとしたところで
何ら得るものはないということを知れ。

再び壁にぶつかるとき
お前は寄る辺なき身を嘆いてはいけない。
「だから言わんこっちゃない」という
愚劣なあざけりに屈してはならない。
お前は火を求めるのだ。
死してなお笑え。
手放してはいけない。
神に従え。
耳を澄ましてその声をよく聴け。
迷うな。もう迷うな。
お前の道は決まった。
こんなにも明らかに示されているではないか。
それが社会のどんな枠に収まりきれぬもの、
あるいは怠惰や弱さに由来するものだと言って
お前を躓かせようとする者達など
取るに足らぬものではないか。
頭をしっかり天に向け、あごをぐっと引いて、
黙って進んでいけばよい。
悲壮感などとは無縁。
喜びとともに在り続けよ。
世界に対して全てを開いて。
歩め。

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2004/9/9 (Thu) 思考メモ5
9月一杯で辞めるとなると残り時間は少ない。
これは歯を食いしばって乗り越えるというより、
むしろ楽しみ尽くさなきゃ損、
というものではないかと今朝ふと思った。
しばし解放感。

ここまでの半年のことを過去形にしてしまうこと。
キレイに包んで、ポイッと捨ててしまうこと。
いいじゃない。
気分が段々楽になっていく。
オレは旅を続けるんだ。
それでいい。
ナルシシズムだっていいじゃないか。
捨てて、捨てて、生命の軸となるべきものを
掘り起こし、掘り起こし、
それにしっかりと掴まっていればいい。
埋もれさせない。

E社へ、カナダへ、ヨーロッパへ、K下宿へ、H高へ、
ゴロゴロ転がれ!
そいつがオレの人生ならば。
地道にこつこつと積み上げていく人に
引け目を感じる必要などない。
生きた者勝ちだ。
笑え、笑えよ。
腹の底から。

負けそうになって、潰されそうになったら、
ダッシュ。

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2004/9/16 (Thu) 思考メモ6
(出勤途上)

寝不足。
身体は一杯一杯の状態のまま。
全身がだるく、呼吸は浅い。
息が切れる。

こんなことを続けていて良いはずはない。
共同体への敵対行為を取ろうとしているときには
ある種の自罰のメカニズムが働いているか?
もう終わりだ、勘弁してくれ、と投げやりに
自分を大切にしない状態になっていないか?
こいつはもう本当に限界なのだ、という状況証拠をつくって
辞めることに関するドタバタを少しでも楽にしようとしているか?

どこかにそんな心理がある気はする。
でもそれはきっと間違った戦略だ。
そんなことをすると、共同体の亡霊は
ずっとついてきてしまうだろう。
少しでも自分を整え、顔を上げ、胸を張れ。
そうして落ち着いて自分の道を進め。
とるべき進路はこんなにも明確なのだから。

オレの身体よ、オレの細胞たちよ、
申し訳ない、この意識の専制と抑圧から自由になり、
生命の営みへ共に向かおう。

---
(帰宅途上)

探究の発表〜レポート提出という、ひとつの山場を越えた。
バタバタと走り回り、論文のチェックをしていく。
そうして提出物の整理。
Hさんがコンテストへの応募の準備していたのを手伝う。
流れに乗っているとき、
アドレナリンを無理にでも放出しているとき、
やはり気持ちは前向きになる。
やり遂げた感覚。
何だかんだいって、こういうのは良いものだ。
緊張感とその後の引き潮。

今日の2-6の授業は酷いものだったし、進度も遅かった。
Nさんに分からんと突っ込まれるし、皆寝まくるし。
それでも今日は自己肯定の気分。
何となくこのまま続けられるような気持ちにさえ
なってしまいそうなくらい。
良いことだ。
身体はやっぱりかなりキツイのだけど。

さて、少しは伸びやかな気持ちになったうえで、
「さらば」と行けるかな。
後任が見つからない場合、
それでも断れるか?
楽な気分でピシッと?

さて、それでどうする?
何をしていく?
こうして走っているときには元気になれることを忘れるな。
一人になると、またズブズブと狭い世界に入りやすくなる。
社会に身を任せて、前向きに生きるのは楽だなぁ。

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2004/10/5 (Tue) 金は汚れている?悪魔の住むところ
「所有」は人間の心理の何処に根ざしているのだろうか?
不安を回避するためには人は「余裕」を持つ必要がある。
余裕とはある種の余剰によって支えられるものである。
人は様々なものを所有する。
それは物理的な「もの」とは限らない。
いわゆる「アイデンティティ」も、
自分の所有の感覚と密接な関係を持っている。
「属すること」すなわち所有されること(受動)と
所有すること(能動)とは、
心理的な面ではそれほど明確に切り分けられるものではないのである。

幼き頃、人の所有の感覚は、
自らの身体に対する「自覚」とともに立ち現れてくる。
「力の感覚」と隣接ないし一体化しながら
人は自らの身体から切り離された「意識」を獲得し、
その意識は身体、あるいは世界との再合一を目指して働き続けるのだ。
高揚か、絶望的な孤独か?
意識はその誕生と同時に世界の所有に向かって動き出す。

所有とは弁証法的な心的ダイナミズムである。
客観的に見ると、世界の中にただ一つとして
ある一人の人間に永続的に結合しているものなど存在しない。
それは彼の身体さえ同じである。
人は死ぬとその分子は再び世界にばら撒かれるのだから。
一体何処に彼の所有物があるというのか?

そもそもここで最も根源的な問いにぶつからざるを得ない。
所有する「主体」とは何者か?
「意識」とは?
一人の人間とは厳密には何を指すというのだろうか?
「我思うゆえに我在り」のコギト、それはある種の運動、
私が私であることを感じ取り続けることによってのみ支えられる。
それは運動であって形を持たぬ。
さりとて!
人はそこに戦慄し、その恐怖ゆえに形を求めていく。
運動のみでは何も残ることがない!

<エロース>
神とは、その運動を束ねる宇宙のより大きな運動そのものである。
それは我々のような小さなもののなかに、
瞬間、瞬間のなかに存在するに過ぎぬ。

(!記憶を所有することによって
人は一個の人間であることを確認し続けるのだ!
その再確認の継続こそ、
自己参照=オートポイエーシスという考え方のベースになる。)

<タナトス>
悪魔とは、運動を堰き止め、結晶させようというところ、
守ろうとするアクションの中に見出される。

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2004/10/12 (Tue) 思考メモ7
秋休み最終日。
明日以降の仕事の準備と、思考の整理をはじめたが、
辞めるということと今後の「探究基礎」の形について考えることは調和せず、
なんだかよく分からなくなる。
それでもひとまず授業の進め方、注意事項について
きちんと文書化しておくことにしよう、そう決める。
なんとなくそのまますぐに始める気になれず、
「カラマーゾフの兄弟」の続きを読む。(中巻)
一時間ほど寝室でのんびりと本を読んでいたら、
隣の工事の騒音、話し声に加えて、
裏の家から例の大正琴の音まで聞こえてきてうんざりする。
しばし散歩をすることに。

金木犀がそこら中で匂っている。
もう少し早い時期だったように記憶していたのだけれど、
勘違いだったようだ。
秋も半ば。
この季節、この季節。
煙草がまたいつの間にか定着して増えている。
弱き者。
アディクションに打ち勝てぬものに、
神への信仰を固めることなど出来ようか。
再び喘息の兆候。
しばらく収まっていたのに。
さあ、これからどうする?どうなる?

---

煙草を止められぬ不甲斐ない己から
逃げ出そうとしても逃げることなどできぬ。
学校を辞め、社会から逃げ出すことを求めているのか?
今の「おかしな」社会から?
世界は今までだっていつも混沌としていた。
今にはじまったことじゃないさ。
己ときちんと向き合え。
学校のことなど他愛もないこと。
この弱さ!
みじめったらしいこの姿!

歯を磨くこと、ストレッチをすること、瞑想すること、
掃除をすること、一日の計画を立て、反省すること、
そうした全ての営みはどこへ押しやってしまったのか?
己を保つことができぬことを、
外部の要因に擦り付けてはならない。
それは駄目だ。
学校に蔓延する雰囲気に流されてしまうのなら、
それは結局、己の未熟さによるのだ。
辞めることは別に構いやしない。
学校のせいで病気になったと言って辞めては駄目だ。
仮にそれが事実をはらんでいるにしても、
そいつを言い訳にしてはならない。
自分で選ぶこと。

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