書評


  Back

2003/10/27 「草にすわる」 白石一文
下宿の友人に薦められて読んだ2冊目の白石作品。
「草にすわる」、「砂の城」の2篇。10/15読了→10/27再読。

「草にすわる」 : タイトルは八木重吉の詩より。

     わたしのまちがいだった。
     わたしの まちがいだった。
     こうして 草にすわれば それがわかる


 (あらすじ)
 主人公はまもなく30歳になろうという青年。3年あまり大手の不動産会社で営業の仕事をしていたが、不景気の中無理なノルマばかり課される状況にうんざりし、親しい先輩が自殺したのを契機に会社を辞めた。5年間は何もせず、切羽詰ったもう生きるしかないような理由を見つけてから働こうと考えていた。退社後2年半はフリーターをしながら一人暮らしをしていたが、病気をして体を崩して以降、親元で無為に暮している。既に3年半。ただ「待ち設ける」生活に徐々に倦み、「無欲とヒマと弛緩のせいで固有の時間感覚をなくして」いく。それを食い止めるためか、高校時代まで陸上部の長距離選手だった彼は毎日欠かさず5kmほど走り続ける。ただそれだけを守る。
 そんななか、彼は母親がパートをしているスーパーの女性マネージャーと出会い、何となく深い関係になる。同じ高校の先輩。高校生のころ彼女は成績トップを守り続けたことで有名だった。早くに父を亡くして母子家庭だったにも関わらず。だが、大学を出てバリバリのキャリアウーマンとして働いていた5年前のある日、不倫の恋の相手を追ってニューヨークへ行っている間に、火事で母と体の不自由な弟を亡くす。どうしようもない想いを心に抱えながら、勤めていた監査会社を辞めて故郷に戻り、スーパーの仕事に情熱を傾けている。でも酒を呑みはじめると、浴びるように呑む。
 「あーあ。もういやになっちゃたなあ。なあんにもいいことなんてないんだから。どんなに我慢して頑張って生きていたって、きっともうどうにもならないんだよね。」  スーパーの親会社が外資に買収され、自分の店舗が閉鎖されることになった日、彼女は散々呑んだくれた後、一緒に睡眠薬で死のうと彼に持ちかける。それをすんなり受け止めた彼は、いつの間にか彼女から睡眠薬ををひったくって独り占めし、日本酒でそれをあおっていた。
 2ヶ月の昏睡から目覚めた後、主人公は半身不随の状態になっていた。ほとんど影響の残らなかった彼女は、彼が自分を助けるために薬を奪い取ったのだと彼の両親らに謝り、自分の所為でこうなってしまった以上一生償いをしたいと語る。それをかえって重荷に感じる彼。惚れ抜いた二人が心中したというとは全く違って、切実さもないままこんな 「半端な不始末」 を起した。そんな二人が未遂後もズルズルと付き合い続けるのは、「幕が下りた後も三文芝居をやっているようで」 異様に感じてしまう。何も変わっていやしないのに。
 だが、病院から外に出て暖かな陽射しを浴びながら福寿草を見、眠りこける間に冬を飛ばしてやってきた春を感じ、車椅子から崩れ落ちて草地に座りこんだとき、突然何かが心のなかで動き始める。
「なんということをしてしまったんだろう。どんなに嘘でもどんなに幻であっても、自分には、それをこれほどの喜びとして感じとれる力があったというのに。生まれも境遇も生活も過去も一切を捨象してなおも残りつづける、これほど確かな力が備わっていたというのに。」 これじゃ自分が可哀想だ。彼女が可哀想だ。皆が可哀想だ。申し訳ない。「与えられたこの世界全体、この空気や風、太陽や微かに揺れる草々、遠く流れる雲と青い空、疎水の細い水、大地、そうした万物のことごとくに対して自分は取り返しのつかないほどに申し訳ないことをしてしまった、と」。(第一のカタルシス)
 彼は彼女とともに生きていくことを決める。そんな彼に彼女は密かに大きな贈り物を用意していた。閉鎖される店舗を自ら買い取っていた。ここで共に生きていくために。走ることを生甲斐としてきた彼にちなんで「アキレス」という名をつけて。ここで彼は初めて気付く。実は投げやりに死にたいと感じていたのは自分であったことに。そうしてそんな彼を彼女が必死で救おうとしてくれたことに。「俺はなんと傲慢な人間なのだろう。なんと浅はかな人間だったのだろう。あんな馬鹿なことをしでかしたあげく、それでもまだ、自分が誰かに同情し、誰かを哀れみ、誰かの力になれるなどと思い込んでいたなんて。」 地面にへたり込む彼を彼女が助け起こす。「これからはこの二人の足で歩いていければ、それでいいのかもしれない。一度倒れた人間が新しい一歩踏み出すというのは、おそらくそういうことなのではないか・・・。」 それが彼の30歳の誕生日であった。
(第二のカタルシス)

 (コメント)
 あらすじを見れば明らかなように、主題はニヒリズムからの脱却である。現代の日本の若者の心理を丁寧に描き、著者の抱くブレークスルーのイメージを具現化している良い小説だと思う。友人がこの本を渡してくれたときに、笑いながら僕の置かれた状況に似ているんじゃないかと言っていた。現実に重なっているのは会社を辞めてふらふらしていることくらいなのだが、思考の経緯なども含めて案外良く似ているのかもしれない。確かに場面場面では強く共鳴するところがある。ただ読後には何とも言えない違和感が残っていた。これは白石のロングセラー 「僕の中の壊れていない部分」 を読んだときにも受けた印象だった。
 この違和感は一体何なのだろうか?(あらすじ)を書きながら改めてもう一度全体を追い、考えてみた。それは著者が提示してくる「結論」 めいたものに由来している。カタルシス(罪の浄化)の形についてだ。乱暴な言い方かもしれないけど、虚無のなかをのたうちまくった挙句、最終的に人(女性)に身を委ねてしまう展開に、僕はどうしても無難に収めようとする作為めいたものを感じてしまうのだ。或いはそれは作為などではなく、彼の実感なのかもしれない。いずれにしてもこのカタルシスは心の中で響き続けるというよりは、一服の清涼剤という感じである。著者自身がこのストーリーによって救われているのか?それが僕の大きな関心事だ。

・ 第一のカタルシスについて=自然との和解=空間の共時化
 雑記でも良く書いていることだが、風を感じ、水を眺め、植物の存在を感じることは、自分の存在を確認するうえで欠くことのできないプロセスだ。それは自分を流れる時をしばし緩やかなものに変えてくれるし、死への恐怖、存在が消えることへの恐怖もやわらげる。時を共有することによって世界に擦り付けられた自分は、そう簡単に消えやしない。ま、消えたところでいいじゃないか、って。小さな自分 (過剰に小さな自分じゃなくて等身大の) を認識することは、心を前向きにさせる。
 それにしてもここで著者が繰り返す「申し訳ない」は過剰だ。僕はこういう「申し訳ない」はあまり好きじゃない。なぜ喜びと感謝じゃいけないのだろうか。自分が何事かできるはずなのに、という押し殺された優越感が滲み出て来てしまう。この言葉が出てくるかぎり、彼は本当には世界に身を委ねてはいない。このあたりにクリスチャンたる八木重吉との微妙な齟齬があるかも。標題の「草にすわる」の詩において、八木はきっと絶対超越者たる神を感じていたハズだ。「まちがっていた」→「申し訳ない」ではすまない。世界は別に自分に与えられていない。確かなのは自分が世界の一部であることだけだ。ちなみに「可哀想」も当然オカシイのだが、このあたりは第二のカタルシスで解消に向かうから、ここでは敢えてそう描いているということなのかもしれない。その後半の「解消」が僕には不服に感じられてしまうのだが。。。

− ここの「申し訳ない」は「原罪」のイメージと取れる。だとすればこれはカタルシスそのものではなく、そこへのプロセスを現わしているのかもしれない。確かに罪を認めることは救いに近づく道だ。うーん、でも今の僕にはやはり「罪」よりも「小さいこと」を認めるというほうがしっくり来るなぁ。(10/29追記)

 ・ 第二のカタルシスについて=人(社会)との和解=共同性の回復=母体回帰?
 他者に対して心を開き、小さな自分を曝け出すことはとても大事なことだ。それには自らと鋭く向かい合うプロセスが要求されるし、決して簡単なことじゃない。実際、ここで主人公は木っ端微塵になっている。だが、そこからもたらされるカタルシスに、「究極」を匂わすような装いを与えてはいけない。それはあくまで生の一場面なのである。
 これをキリスト教の枠で言うならマリア信仰の部分である。これは僕にとっては重いテーマだ。人を信じ、身を委ねるということの大事さを充分認識しながらも、それが僕を根っこの部分から救ってくれる訳ではないから。ここで現れるカタルシスにかなり近いものを僕は何度か体験してきた。仕事の様々な局面でのチームワークを通じてだったり、両親に対する関係だったり、もちろん恋人との間では一番はっきりとした形を取った。この小説ほど大げさな場面設定ではなかったとはいえ。だが人に身を委ねていくことで確かなものを掴めたならば、僕は会社も辞めなかったし結婚もしていた。
 とても感覚的な言い方になるが、人に身を委ねていくことは母なるものへの回帰に近い心理であり、虚無と対峙するのでなくてそれを丸々と飲み込む行為だと思っている。そうしてニヒリズムは更に奥深いところに内在化される。それは「神」に身を委ねることとは違って、不安定なものにどっしり腰を下ろす感じだ。マリア信仰は唯一神信仰への啓蒙用初心者コースであり、実はキリストが語っていたこととは大きく乖離している。それが間違っているとも、不要であるともいうつもりはない。ユングの語った太母のイメージを考えてみても、それは人の存在に密着しているものだから。それでも僕にはこの類の心理構造の無意識化が、現在の日本の様々な「病理」の一つの大きな核となっている気がしてならないのだ。それはもちろん自分自身のことも含めて。

 「一服の清涼剤」効果にはさほど持続性はないし、それを求めるものは常習者にならざるを得ない。実際著者がいくつかの作品に渡って繰り返し同じテーマを扱っていること自体が、それを示しているように思う。流れに身を任す、人に下駄を預けるのは日本人のお家芸だ。確かにそれは気持ちを楽にしてくれる。もちろん私もその有り難味は充分承知している。感謝することの大切さ、それを否定するどころか積極的に賛成である。それが繰り返しになることを拒みもしない。むしろ繰り返される日々には真実がある。ただ、殊ニヒリズムとの対峙という側面から捉えた場合、この方法は本質的な結論とは成り得ぬのではないかと僕は疑うのだ。
 個人的な実感から言うと、こうした「一服の清涼剤」的な体験をするのは、既にニヒリズムから脱出する契機を掴んだ後であることが多い。つまり心理状態が上向きだからこそ、鳥の声に気付き、人の心遣いに気付くことができるというふうに。虚無を脱するときは既に心の中に契機が出来上がっているのではないかということ、それが一点目。
 二点目。これがより重要なことなのだが、虚無の感覚は波のように押しては返し、人は躁鬱を繰り返す。だが、その振動が固定されたバネのそれのようなものなのかどうか。ただ繰り返されるだけなら、それはニヒリズムの枠を出ることはない。振動を繰り返す中から、個の中に緩やかに析出していく何者かがあるとき、そこにこそニヒリズムからの解放の鍵が在る。時空の連結点としての「個」の存在。金や所有物によって規定されるものなどでは断じてなく、また環境や社会における現在位置によって規定されるのでもなく、生きられた生を束ねる存在としての「個」。
 日本的・仏教的な思考においては、個をを投げ捨てて全に向かうという傾向が強くなりがちだ。それは一見ニヒリズムからの脱却を与えてくれるかのように映る。だが、それは本来、生を単純な振動として受け入れることができる世界においてのみ有効な方法である。現代人の持つ進歩・前進の感覚、資本主義という社会構造、そして未来への希望は、そうした解を許してはくれない。現代を生きる僕達にとって「個」 を投げ捨てることなどできやしないのだ。安易に「全」的なものに身を委ねるのではなく、どこまでも等身大の個を自ら支えなければ。それを放ったまま自分の身を委ねてしまうことは、「個」の感覚を無意識に追い込むだけであり、むしろ心の底の不安をさらに大きくする。妬み=ルサンチマンは消えることなく、相変わらずドロドロと滲み出し続けることだろう。

 ポイント → 人を信頼し、身を委ねることで、ニヒリズムからの解放を得られるか?

 暫定解 → 主体性を持たぬ人間にはニヒリズムからの解放は無い。

最後に…
 これだけ書いておいて今更変に響くかもしれないが、それでもやはりこれは良い小説だと思ってもいる。無理やり著者の結論など吸い出さず、一連の出来事の記述として捉えるのならば、何もケチをつけるところはない。問題は著者の力点がどこにあるかだけど、これはエッセイでも評論でも哲学書でもなく小説だ。結論なんてどうでもいいのかもしれない。僕はこの小説の断片断片にとてもトゥルーなものを見る。それでいいのかな。「わたしのまちがいだった」のかもしれない。

。。。

「砂の城」 : 在る老境を迎えた文学者の心理を描く。自分の生活そのものを全て文章に変え、商品化していくうちに、枯渇していく精神。名声のみを頼りに生きていくうちに、どこに自分の生があるのかを見失う。長らく苦労をかけっ放しにしてきた精神を病んだ妻と、すっかり荒れてしまった息子。息子の嫁が孫を連れて金を無心しに来たのを契機に、改めてじわじわと「家族」の有り難味を実感する。正直になりきることはできないものの。長らく病院に入院したまま既に完全に言葉を失っている妻と久しぶりに面接して、一方的ながらも言葉をかける。そんななかで得る淡い救いの感覚。 → ギャグとして書いたんじゃないの、という友人の言葉に同意。