日々の雑感

はじめに
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(2003年8月以前の日記)
Old Diaries



2004/2/8 (Sun) この矛盾に引き裂かれて生きようと思う 1
この一ヶ月というもの、僕は激動の中にあった。
そりゃ僕はいつだって激しく波を打ちながら生きているけど、
今回のうねりはちょっと凄かった。
こいつをきちんと言葉にするのは至難の技だけど、
やはり整理しておく必要がありそうだ。

。。。

年明け早々は重苦しい気分が僕を覆っていたんだ。
現代社会の深い深い所に流れ続ける暗い情念を感受し、
それに抵抗しようともがきながらも溺れていく人たち。
自分の感受性を封印し誤魔化しながら、無難に実生活を生きる人。
嘘を憎み、潔癖を貫くために引き篭るうちに、自分しか信じられなくなる人。
どうして人は皆、そんなに簡単に罠に掛かってしまう?
均衡を取るということは何故かくも難しい?
判断し、選び、決め、信じて生きてゆけ。
だけど心の底にはいつも自由な、保留の感覚を持ち続けろ。
言葉や行動は限定しつつ(能動)心を開いておくんだ(受動)。
結局それが自分を救ってくれるから。
だのにそれは何て難しいんだ!
僕らはすぐに全く逆のところへ行ってしまう。
心は頑なに、生活は流れ流れて。
違う違う。そんなの外から見りゃすぐわかる。
でも本人はそれに決して気づかない。
食ってかなきゃいけないとか正義のためとか言い訳をして。

僕の語る言葉はしばしば人を励まし、或いは動揺させる。
だけどそれは沈黙の井戸に落ちる一滴の雫にしかならない。
無力。無力。
人はそれぞれの生命を生きるしかない。
人のことなんか背負っちゃいけない。
そう思いながらも僕はいつしかゲームに巻き込まれ、
祭り上げられたり、泥仕合を仕組まれたりする。
それを回避して逃げる訳にもいかないけど、
かといってそこに足を取られてもいけない。
簡単じゃないよ、それは命を削る。
投げかける言葉はそのまま跳ね返り、
僕は己の弱き心を思い知る。

そんなとき投げかけられた一筋の光があった。
心の底で抱き続けてきた「希望」に呼応する声。
京都へ戻ってしばらくした頃、僕は恋に落ちた。
自分を完全に解放して没入していくような恋に。
酔った。何かに導かれるような不思議な感覚だった。
そして自分史上最大とさえ思えるような躁状態がやってきた。
醒めた自分を放棄して良いと思い、変化を受け容れようと思った。
そして誕生日を迎えて31歳になったとき、煙草を止めた。
数時間、一本の煙草と差しで長年の思い出を語り合ったうえで。
数日間の禁断症状を抜けると常時瞑想のような状態がやって来た。

感受性が異常に高まった。
風景を見ても、本を読んでも、音楽を聴いても、
喜びと哀しみを一緒くたにしたような感慨が僕を洗うように襲ってきた。
ボロボロ泣き続け、そしてニコニコ笑い続けた。
十数年ぶりに煙草の毒が体から抜けていった。
収縮を繰り返し、痛めつけられていた血管はすっかり弛緩した。
酒が美味くなった。どんなに呑んでも頭が痛くならなくなった。
体が軽かった。水泳に行くと高校生の頃の体のキレが戻った様だった。
恐ろしい程の解放感。

超越と浮遊の感覚。
まるでシャーマンになったみたいだった。
神とともに在るということが実感される。
様々なことが神の御旨としてごく自然に受け止められた。
何かに徹底的に集中することは難しくなっていたが、
色々なことが自然に解決されていくかのようで。
シンクロニシティを信じることができた。
全ての暗いものと決別し、眩いほど明るい世界へ向かえばいい。
そう、僕は確かに「飛んでいた」。

だが、1月が終わりを告げる頃、逆流が押し寄せてきた。
弾き返していた暗いものどもが再び僕を襲う。
インフルエンザにかかった。
呼吸が苦しく、力が全く入らない。
これだけ酷い風邪を引いたのはいつ以来だろう?
部屋で独り布団に臥せ、朦朧とする意識のなか、
いくつもの幻影が現れては消え、僕を弄んだ。
恐らく生まれて此の方最も近くに「死」を感じた。
一度全開にした心と体はまったく無防備になっていた。
流されるまま流されればいい、そんな気分になっていた。

僕はこのまま消えていくかもしれない。それでもいい?
何も残していないし、結局逃げてばかりだったんじゃないか?
そいつを正面から見据えるしかなかった。
いいさ。それならそれで。僕は必死で生きてきた。
諦めでなくそう感じることができたとき、
僕は逆に生の道へと戻っていった。
身体のパーツを一つ一つ意識して確認し、
心を悩ます「暗いものども」を見渡すうちに、
生きなきゃ、って思った。
夜中に起き出して米を炊き、必死で食った。
汗をダラダラかきながら湯を飲んだ。

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2004/2/8 (Sun) この矛盾に引き裂かれて生きようと思う 2
舞い上がり、そして深く潜り込む。
この過激な波に翻弄されつつ、
僕はぼんやりとこれからのことを夢想していたのだ。
彼女と二人、信州あたりに移り住んで穏やかな生活をしよう。
僕らをキリキリと締め付けてくる現代社会の空気から身を引き離し、
山裾の村で伸びやかな気持になって執筆活動などをしながら暮す。
丸く、まあるく生きること。
僕がこの一年の間考え、語ってきたことを実践するには、
そういう場が良いのではないか、などと思いながら。

実際にそれを彼女に語り、すぐにも実行に移そうとした。
二人の関係を空気のようにしないためにも、
そんな挑戦・冒険が必要だと話しながら。
どうやって生活を支えていくか、家をどうするか、
直ちに具体的な課題が浮かび上がってくる。
親切な友人が早速信州の知り合いを当たってくれた。
問題は仕事。定職も無い者に部屋を貸してはくれまい。
彼女がハローワークで現地の仕事を探してくる。
僕も僕なりに翻訳の仕事なんかを当たろうとする。
いざとなれば親に頭を下げて保証人を頼めばいいさ。
新しい二人の暮らしが次第に形を見せ始める。

が、そこでハタと止まったんだ。
昨日二人で話をするうちに気づいたことがあった。
僕らが求めているのは果たしてそういうことなのだろうか?
そうした全てが実は「逃避」なのではないか?
そうやって具体的な「何か」をすることで、
大きな「壁」から巧妙に逃れているのではないか?
安全なところへ。それはそれでいいさ。
だけど僕らはそうして生きていきたいのか?

現実的に計画の目処が立たないということではない。
やってできないことでは決してないから。
違う。むしろ全く逆だ。
僕の心の中に、今の世の行き詰まり感から解放されたいという感情があった。
そんな隠居めいた暮らしをすることによって
世の矛盾から逃れ、自己完結した世界を形成すること。
それが本当に僕がこの生に求めるものなのか?
いつの間にか恋が甘えに変容していなかったか?
酔ったまま足を踏み外していなかったか?
超越に甘んじようとする自分が居なかったか?
僕のやってきた作業はいつか焦点をぼやけさせてるのではないか?
安全無害な一社会分子として無痛化装置に回収されているのではないか?

待て。待てよ。
僕は僕がやってきた作業にきちんと答えを出してきたか?
生命を削ってでも表現すべきものがまだあるんじゃないか?
ズルズルとサボっているうちに、もういいや、って思っていなかったか?
まだ田舎に引っ込んで畑を耕すには早いんじゃね〜か?
超越なんかしてる場合じゃない。
僕は僕の仕事をしていかなきゃ。
人に認めてもらうためとかいう話じゃない。
間違ってもそんなものに捉まるなよ。
矛盾を抱え込み、そいつをエネルギーに変えて生きてみろ。
渦巻く濁流のど真ん中で心からの高笑いをしてみせろ。
仙人なんか気取っても仕方ないじゃないか。

僕が表現しようとしてきたこと、
それは生活の断片断片を大切にし、生を丁寧に生きていくこと。
だけどそれを厳密にきっちり表現するためには、
生活そのものを犠牲にして言葉の世界に向かわなくてはならない。
それ自体、僕に仕掛けられた大きな矛盾。
そう、僕はその矛盾を抱え込み、引き裂かれて生きていかなくては。
それは闘争なんだ。日和って田舎に引っ込んでもなおそれをできると思う?
もうちょっと頑張ってみないか?

一番難しい道を選ぶこと。
自分に、そして世界に、正面からぶつかっていく道。
それがきっと僕らを磨いてくれる。

行こう。

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2004/2/11 (Wed) 刃の向かう先は?
矛盾の中へ。
混沌の中へ。
予定調和を拒絶し破壊して。

僕は一体何のために表現しようとするのだろう?
一体誰に対して言葉を語ろうとしているのだろう?
何故安らかに眠りこけることを拒絶するのだろう?
創りたいのか?壊したいのか?
安心を得たいのか?激動に身を置きたいのか?
生とは一体全体何だというのだろう?

抱えこまれる矛盾。
それは世界の矛盾。

。。。

僕らはいつだって生存の不安を抱えている。
できることならある程度先を見通せる世界に生きていたい。
我が身の安全を保証してくれるものを担保しておきたい。
最低限、現状維持したい。
それを揺るがすものに対しては激しく抵抗する。
そしてできることならばより手堅い安心をと望み続ける。
力を求め、金を求め、知を求め、愛を求めて。
執着と所有への欲望は不安の裏返し。
安全保障への要求は満ち足りるということを知らない。

そんな感情を土台にしながら文明は進展し続けてきた。
100年前のことを想像してみよ。
僕らがどれだけ安全なところに生きているか。
今やテクノロジーが制御下に置いていないものを探す方が難しい。
だのに僕らの不安はとどまることがない。
安全に慣れた者は生命力を失い、更なる安全を必要とする。
不安の隠滅工作は果てしなく続いていく。
おかしなものだね。
僕らは遅かれ早かれ死ぬし、人類だってやがては滅ぶ。
そんなことは当たり前だっていうのに。
一体どうしてそこまで「安心」など求める?

ちょっと視線をずらして考えた時、
不安の消去は秩序形成を意味していることに気づく。
揺らぎを最小限(制御範囲内)に抑えておくこと。
それはつまりエントロピーを減少させるということだ。
時の流れ、すなわち滅び(熱平衡)へ向かう宇宙の流れに抵抗して、
自己領域のエントロピーを減少させることが生命の本源的な営みならば、
不安を抑制することは生命の基本的な欲求と言えるのだろうか?
現代社会はその欲求に応えている?

が、僕は現代社会の潮流のなかに生命力の低下を見るのだ。
不確定要素は次々と除去され、
生は予測可能なところへ押し込められているのではないか?
抗い様も無いほどに整備されたシステムの構成要素となった現代人は、
薄められた不安をせっせと増幅してしゃぶるばかりで、
大きな揺らぎに対する柔軟な対応能力を失っていないか?

ベルトコンベアーに載せられた製品?
屠殺場に送られる家畜?

僕が開発の仕事をしていたときに感じたことがあった。
少人数でプロジェクトを始めた時、
とても手に負えないような混沌が僕らの周りにあった。
そいつを必死で整理しながら、自分達の進むべき道を定め、
システマティックに仕事ができるような仕組みを考え続けた。
実験作業をシンプルにするためのソフトウェアを作ったり、
山積の課題にあたるために定例ミーティングを設定したり、
プログラミングの負荷を減らすためにオブジェクト指向を導入したり、
そうやって一つ一つ組織の基礎となるシステムを構築していった。
が、やがてそれらが定着して仕事が効率化していくに従い、
それは後から来た人達にとってはアンタッチャブルな制度として機能した。
細分化され、効率化され、機械化されていく仕事。
それは確かに仕事の流れをスムーズにしたかもしれないが、
そこから人間の匂い、生の匂いが消えていくように思えた。

仕事をすること。創造をすること。
人は世界をより豊かなものにしようとして、
より緻密で精巧な世界認識を目指し続け、
より効率的なシステムを目指し続ける。
システムが完全なものとして完成されることはない。
けれども、ほとんど漏れのないように感じられるものが
既に僕らを取り巻くようにして存在しているのではないか?
それを幻想と呼ぶにはもはやあまりにも強固だ。
いつしか僕らの行動はパターン化され、パーツ化されていく。
機械化していく僕らはゆるやかに麻痺し窒息していく。

古典的な言い方で呼ぶならそれは「疎外」。
でもそいつはどこか外部から襲ってくる訳ではない。
革命を起こして権力を打倒すればいい、なんて問題じゃないんだ。
必死に生きる人間の創造行為そのものが、
社会に新たな拘束機能を付け加えていく。
生の営みそのものである秩序形成運動が、
生を縛り上げ、切り刻んでいく。

僕は一体今ここで、何をすればよい?
生を取り戻すとは一体どういうことか?

刃は己の喉元を突き抜け、
生命の核まで達しなければならない。

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2004/2/16 (Mon) 僕らを貫いて流れていくもの
今、僕は思考の集約作業を試みている。
そして何故自分がそうしているのかを考えている。

様々な出来事、様々な人との出会い、
その一つ一つが僕を波のように洗っていくなかで、
確かに堆積されていくものがある。
それは放っておくうちにいつしか拡散し、
僕のうちにあるものと溶け合って、
流動的なイメージの束となっていく。
この流れこそが「暗黙知」として僕を支える。
僕が今やろうとしていること、
それはこの暗黙知の畔に降りて行って水を汲み、
一つの水瓶のなかに注ぎ込んでいく作業。

一体何のために?

己の明日の渇きを潤すため?
美味しい水として売り出すため?
水質調査をして河の状態を知り、保全を図るため?

言語化していくという作業は、
その本来の意味を考えるならば、
他者を意識せずに為されることはありえない。
単に渇きを潤すためならばその場で潤せばよい。
わざわざ水瓶に入れて持ち帰るというのは、
生を共有する人達に分け与えるためではないか?
水を味わう喜びを分かち合うために。
あるいはまだ歩くことを知らぬ幼い子供を育むために。

水瓶の水はやがてそれを飲む人の体内の河に静かに合流する。
そんな風に水瓶を介しながらイメージは流れ流れて行くんだ。
僕ら全てを貫いて。
それが共有された文化というもの。
そう、この河は太古の昔から流れ続けている。

だが言語という水瓶は、その蓄えを可能とする性質ゆえに、
いつしかそれ単独で価値あるものと見なされるようになってしまう。
水が新たに汲まれることなく、飲まれることもなくなって。
ただ水瓶が交換され、売り買いされ、蓄積される。
河はその存在さえ忘れ去られ、干上がっていくんだ。
メタンガスが浮かび上がる沼のようになって。

いいのか?それで?
僕は今再びこの河の畔に立ち、
穴ぼこだらけの水瓶を抱えて、
ただ棒立ちになってその流れを見つめる。

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2004/2/23 (Mon) 春の空気に乗り遅れ
昨夜は久しぶりにまとまった雨が降った。
外に出ると心なしか空気が清浄になっている気がする。
風は強いのだけど、時折差しこんでくる陽の光が暖かい。

ここ数日、とても暖かな日が続いている。
冬のあの張り詰めた透明な空気はどこかへ行ってしまい、
一面にうっすらとした靄が掛かっている。
東山に目を向けると山が少し遠ざかったような感じだ。
キンキンに冷えた日、手が届きそうなほど目の前に迫ってくる山波、
緑と枯れ色の斑模様、その鮮やかな輪郭に息を飲んでいたのが嘘のよう。
春が始まっているんだ。

身体が気温の変化に対応し切れていないのか、
そうして暖かくなって来た途端にまた風邪をひいてしまった。
喉の調子が悪くて呼吸がしにくく、身体の節々がダルイ。
インフルエンザが完治したのが10日ほど前だし、
なんだかちょっと水面から顔を出して、すぐにまた戻ってきた感じ。
全く困ったもので。
頭もあまり働かないし、横になって本を読みながらウダウダと。

ここ一月ほど、下宿のすぐ裏で3階建ての建物の解体工事をしていて、
朝から晩まで物凄い音が鳴り響いていたんだ。
3台の巨大な工機が轟音とともにアスファルトを粉砕していく様を、
恐竜が暴れているようだな、なんて思いながら見ていた。
そんなとこで心身の安定なんか保てるか、っちゅうの。
二日ほど前に整地作業が終わってようやく静かになった。

平和だ。ほっと一息。
散り散りに乱れてしまった自分の欠片を
もう一度集めにいかなきゃな。
でも今はもう一休み。

咳をする。
身体の中心から熱が全身に伝わっていく。
それがサァッと引いていくのが嫌な感じ。
ふう。

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2004/2/25 (Wed) 滅びを恐れないということ 〜 それでも己とともにあれ
恐れを乗りこなし、知を乗りこなし、
力をその手に握ったあなた。
大地を離れて自由に飛翔するあなたは限りなく美しい。
されどあなたはやはり神ではない。
願わくば戒めとともに生き給え。
力の虜となって酔えば酔うほど、
あなたは自分の足場を失ってしまう。
そうして次第にその飛翔力さえ失っていく、
そんなあなたを私は見たくはない。

恐れを乗りこなせぬ者、
知を乗りこなせぬ者を前にし、
あなたがなおもその鋭い刃を振りかざすとき、
それはもはやその力への固執に堕してはいないか?
己の手にした力を失うことへの怯えを見ないか?
本来その力の源泉であった大地への愛から、
引き剥がされているのを感じないか?
力はかくも脆きもの。

人の子は一人立って歩かねばならない。
力への依存が人をあなたの足下に置くかもしれないが、
それが真の力の源泉たりうると思うか?
あなたの求める地平はそこにあるのか?
閉じゆく循環にのめり込むことを是とするならば、
錆びゆく刀を血で染めねばならぬ宿命を見ぬか?
それを知る上でなお進むならば
もはやあなたは力の虜。
かの指輪はあなたを道ずれにするのみ。

救おうとすることがすなわち、
己の虚栄心を満足させることでありうること、
そうして巧妙に仕掛けられた罠に気付かぬか?
充分だ。もう充分。引き際ではないのか?
人の子は一人行かねばならない。
可能性が開けるとすれば、
道はただそこにあるのみ。
それとも他に道があると思うか?

あなたは既に彼を放り出した。
あなたの呪術を守るために。
あるいはもしもあなたがその呪術を揚棄し、
死すべき一個の人として、
限界を覆い隠さぬ一個の人として、
再びそこに立ち現れるのであれば、
道は開けようものを。

道を選ばねばならない。
心ある道を。
人は全てを手にすることはできない。
否、全てを手にしたうえでなお、
己と共に在らねばならない。
滅びを恐れぬことは素晴らしい。
命をも、そして命を超えるものをも、
己の拠って立つ全てのものの滅びを
正面から見据え続けることができるならば。
かくなるうえで、ただその道のりを全て歩み尽くす。
力を乗りこなすということは、
つまりはそういうことなのではないか?

舞い上がり、舞い下りる、
自在な魂であれ。
美しき人よ。

(真木悠介「気流の鳴る音」、ドン・ファンの教えより着想を得て)

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2004/2/26 (Thu) 個と全というテーマ
僕は今、「生の原理」という大仰な題名を掲げたエッセイの構想を練っている。
作品コーナーや雑感にも断片的に書いてはいるが、僕が語ろうとしていること、
それは人は(自分は)どう生きるべきか、という「倫理」に関することだ。
人類が積み上げてきた様々な知を僕なりの形で集積していくなかで、
同時に一個の人間としてありふれた日常を生きるなかで、
朧気ながら立ち現れてきた「倫理」の感覚を何とかして表現したい。
テーマそのものは会社を辞めて以来、ずっと暖めてきたものだけれど、
それはとても一筋縄でいく代物ではなさそうなのだ。
10月末頃、せめてその「ラフ・スケッチ」を描きはじめようと思い、
HP上でもそう宣言したのだけれど、作業の進展はとても遅い。。。

一つの大きな理由、それは書籍やインターネットを通じて
次々とやってくる現代の様々な知との出会いが、
その度に僕を大きく揺さぶって宙に投げ出すからだ。
僕は眼前にうず高く積み上げられた人類の叡智に深く感動する。
自分の考えてきたこと、為してきたことに「意味」が与えられ、
大きくて暖かなものにしっかり包まれていると感じながら。
存在は肯定され、僕は「普遍」なるものの実在を確かめる。
だが、そこで同時にある種の虚無の感覚が僕の心にするりと忍び込むのだ。
全くもって矛盾した心の動きがそこには生じる。
自分という存在など、この巨大な構築物を前にしたとき何と虚しいものか!
ここにそのまま浸っていたら窒息してしまいそうだ。
「個」への執着のスイッチが入る。その感覚を誤魔化すことはできない。
その赤裸にされた矛盾をどうしたものか分からず、僕はしばし途方に暮れる。

「普遍」の感覚を幻として否定して「個」へ還るのか(凝固)?
「個」への執着を愚かなこととして裁断し「全」へ帰依するのか(拡散)?
僕を一旦停止させてしまう矛盾、そしてそこから派生する問題群(テーマ)を
僕は「個と全」と名付けて考え続けている。
当然ながら、それは僕が現実にどういう行動を取る「べき」か、
という僕自身の「倫理」に直結している問題である。
具体的に言えば、「個」を取るなら僕は「サラリーマン」に戻るだろうし、
「全」を取るならば僕はいっそ宗教家になるだろう。

だが、僕が見出しつつある倫理の指し示す道は、
「この矛盾に引き裂かれて生きよ」なのである。
どちらか一方に完全に身を投じてはならない。
しかし、僕が一個の人間として生きている以上、そのどちらも取らずにいる、
そんな状態が存在しえぬということを明確に認めなくてはならない。
すなわち両者を積極的に取り続けること、それが僕の道である。
哲学用語で言うならば、それを「弁証法的」であると言ってもよい。
僕は今、「個と全」のテーマと正面から格闘し続けることを選ぶ。
「書く」ということは、僕にとってその足掻きのプロセスそのものなのだ。

矛盾に引き裂かれて足掻く中で、積み重ねられて行く生の時、生の言葉、
それこそが時代を貫いて流れゆく叡智を支えることを学ばねばならない。
その叡智こそが、時空を超えて人類を統合するイメージと呼ぶべきもの。
いくつもの魂が刻んだ生の時が静かに降り積もり、ここに確かに在るのだ。
それは宙に浮いた権威でなく、崇拝の対象でなく、それ故抑圧でない。
僕はそれを受肉化し、なお何者かを加えて行くことができるか?と己に問う。
恐れるなかれ、他に一体どのように生きていくことができよう?
全身で受け止め、目を見開いて歩いてゆくしかないのだ。

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2004/2/29 (Sun) 「ながら」をやめよう
ここのところ集中力が低下していたことにふと気付く。
同時並行で色々なことを考えてしまい、
結局どれもこれも中途半端なまま、時間だけが過ぎて。
パソコンで言うと、バックグラウンド処理が重すぎてハングしてる感じ。
良くない兆候。一度その悪いループにはまり込むとなかなか出られない。
放っておくと落ち着きを失って虚無感に喰いちぎられかねない。

身体が弱ったときや、ちょっとバランスを崩したとき、
そいつはいつの間にか始まっている。
そうして瓦解がゆるやかに進む。
蟻地獄の形成。
依存傾向が強まり、タバコの本数は増え、
ネットやゲームにズルズル引き摺られる。
世間の声が気になるようになり、自分の欲望には率直でなくなる。
面倒くさい、もっと効率良くしよう、そんな感情や思考ばかりが増えて。
道を歩くときも、食事をするときも、
意識は目の前のことに向かわずに頭の中をぐるぐると廻る。

あぁ大事な知恵をまた埋もれさせていたようだ。

そんなときは「ながら」をやめることからはじめること。
歩くときは歩くことに、食事をするときは食事に集中する。
一歩一歩を確かめながら、顔を上げ、真っ直ぐ前を見据えて歩く。
噛むことや、味わうこと、飲み込むことを意識しながら食べる。
そのうちに忘れていた感覚が戻ってきて、発見の喜びがやってくる。
部屋の整理や掃除、買い物、ストレッチ、瞑想、
目の前の一つ一つのことを順番に丁寧に処理していくこと。

慌てない慌てない。
今、これが、生きていることそのものなんだ。
いつだってそこに戻ってこなきゃ。
どんな大きな話をしているときにでも、
自分があくまでこの生を生きていることを忘れちゃいけない。
眼前の出来事ときちんと向き合うことこそが、
自分の方向感覚を保ってくれるのだし、
何をするにしても結局はそれが一番の早道に違いないから。

。。。

昼下がり、雨上がりの小路を歩いていたら、
沈丁花の香がほのかに漂っていた。
辺りを見回すと曲がり角のところに植え込みがあって、
赤の下地に白を置いたその花が目一杯に咲き乱れていた。

冬が終わりを告げる。

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