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序論 |
現代、私達が生きているこの時代ほど、人類が分裂症的傾向を呈している時代は他に例を見ないのではないだろうか。様々な困難な問題に取り囲まれているのはいつの時代も同様なのだろうが、昔であれば見えるはずもなかった事も見えるようになり、対処しなくてはならない問題は多種多様に変化してきている。この複雑極まりない状況の中、自らの置かれている状況を把握し、様々な判断を下しながら生きていくのはなかなか大変なことである。多くの人は無意識の中に埋没し、あたかも問題が存在しないかのように振舞うことで済まそうとしている。しかし、そうした対応は所詮その場しのぎのものでしかなく、意識の制御し得ない領域を着々と成長させて、得体の知れぬ不安と恐怖の感覚は拭うことの出来ないほどに大きくなっているように思う。金、快楽主義、ニヒリズムはますます幅を利かせ、不自由で限定された人間なる存在であることを必死で覆い隠そうとする。権力、国家幻想は再びその力を盛り返し、その巧妙なやり方で生活に忍び込んでくる。リアリティはますます遠ざかり、言葉は一人歩きを始めている。
ここ数十年、数百年の間に、人類の知性が飛躍的に発展したのは曲げようのない事実であろう。多くの先人達が地上にその標を刻み、後に生きる者達がその精神を受け継ぎ、再び標を刻んで行く。こんな営みを繰り返しながら、私達の文化、そして知性は発展してきた。科学技術の発展、経済成長、思想の深まりなど、20世紀はその花が世界中で乱れ咲いた時代であった。だが、それと同時にこの世紀は搾取と虐殺と破壊の時代であったことも否定はできないだろう。民族間の対立、二つの世界戦争、「先進国」による「後進国」ないし「途上国」からの搾取、核の開発競争、テロリズム、そして環境の破壊、そうした「影」の部分を数え上げればキリがない。得てして発展なるものは、何らかの犠牲の上に成り立っているものだ。それは同時並行で起こっているかもしれないし、どこか見えないところに蓄積されているのかもしれない。一見不条理な、どうしようもないように思える現実。一方で人間という存在のもつ可能性の大きさを実感しながらも、一人の人間として為せることは極めて限定されていることを痛感させられる、そんな時代。大海に溺れてしまいそうな感覚。脱力感や無力感。ある人は絶望して隠者となり、ある人は目に入ってくる現実を拒絶し無邪気な子供に還ろうとする。こうしたことが必ずしも現実に起こっているとは限らないが、無意識のレベルでは確実に進行していることの様に思える。私達が健全に生きていくためには、あまり無駄なことは考えないことにして、せめて「幸運な側」に居続けられるよう努力すべき、なのだろうか?
私はこんなふうに思う。歴史とはいつもそういうものなのだ。問題は常にあふれている。それが本当に切迫している問題であるのならば、諸行無常などと言って諦めの境地に浸っていてもどうなるものでもないし、とにかく足掻くしかないだろう。また、それなりの解決策が見出せたとしても、そこに安住することはできはしない。次から次へと新たな問題はやってくるのだから。恐怖に打ち震え、刹那的に逃げ回っても仕方ない。鈍感になって、妙な楽観に浸っても仕方ない。それは分裂症の兆候だ。現代は問題がどこにあるかさえ見失いがちな時代のように思える。遠くの問題にリアリティを感じ、身近な問題を他人事のように感じる、そんな分裂症的な傾向が広まっていないか?
現実的になるという言葉の意味はどこまでも深く、私達にできることはともかく「現実」に食らいついて生きていくだけだ。
人間の意志は、知性は、「問題」に立ち向かおうとするなかで、もがき苦しみながら成長して行く。現実と、人間とのいたちごっこ。教条的に受けとめられがちなK. Marxの表現を敢えて借りれば、それは弁証法的な歴史の発展過程ともいえるものだろう。人間はドロドロとした現実と格闘する中で成熟していく。わざわざ「不幸な現実」を探し当て、人を救おうとする求道者になる必要はない。無理をしてアフリカの難民と生活を共にしなければならない訳ではないのだ。ただ、自らの置かれた現実と格闘すること。ただそれだけ。そんなふうにしているうちに人は変わっていくのだから。そして、そんな中で、ぼんやりと自分より先に生きた人たちのやってきたことの意味が見えてくるものなのだ。文化の継承、知の継承は常にそうして行われるのだと私は思う。それはそれ自体が目的として現れてくるのでなく、あくまで結果として起こることに過ぎない。人類の発展、その歩みは思うほど単調なものではない。先人の精神を継承するということは決して簡単なことではない。
今、ここで、いかにして生きるか、いかにして自らの行動を決定していくか、いかにして勇気を持つか、いかにして元気になるか。結局のところ私にとってリアルな問題とはそんなところにある。この修士論文のなかで展開していく「物語」も、当然の事ながら、こうした問題に向き合う私自身の思考の一断面として現れてくるものである。私の修士課程のテーマは、物理学ないし科学一般の発展に寄与するため、論理を構築することではありえない。私は私自身が本当に納得いくようなヴィジョンを獲得し、それを語ろうと試みるだけだ。その表現が数学の言葉でなされようと、詩の言葉でなされようと、一向に構わない。ただ、目の前に置かれた問題に対し、どれだけ深く入っていけているか、そして現実に何らかの働きかけをして行くことができるか、それだけなのだ。
さて、私がこれからなぜ「光のエントロピー」について考えるのか、そこははっきりさせておいたほうがよかろう。私自身はもともとエネルギー問題だとか環境問題一般に関して、自分なりの見解をもつことを目指してこの大学院生活をスタートした。べつに正義感に燃えてというわけでもなく、またこれが将来の金もうけの種になるからというわけでも必ずしもない。世の中で言われているような、「環境を守れ」とか「将来のエネルギー源を確保しろ」とかいうスローガンに対する漠然とした不安感に押されて、というのが一番正直なところであろうか。環境を守ろう、エネルギー源を確保しよう、結構である。だけどそれは本当に重要なことなのだろうか?私にとってこうした問題は正直、まるでリアリティのないものであり、むしろ自分には全く関係のないことのようにも思える。わざわざ多くの人たちを不安感、恐怖感を煽るためのでっちあげにさえ思えてくる。だからといって、恐らくこうした問題は早かれ遅かれ私の身にも絡み付いてくるであろう事は予想できる。それは実際熱帯病に罹るとか、家が海の底に沈むとかいうことであるかもしれないが、むしろこうしたスローガンが世に広がって、ある種の強制力として働いてくるということであり、それが私にとって深刻な問題になるのではないかということである。私は多くの「現代的な」人たちと同様、縛られることは嫌いな人間なのだ。スローガンをスローガンのまま自分の中に受け入れるわけにはいかない。「問題が存在する」というのなら、自分の視野の下に問題を置かなくてはならないのである。
具体的に「問題」を考えていく中でいくつもの疑問が湧いてくる。たとえば次のような具合である。いわゆるエネルギー問題を考えるとき、「エネルギー」の意味がいまいちぴんと来ない時が多い。「あと50年で石油が枯渇してエネルギー源がなくなる」と言うとき、僕らが高校で習ったエネルギー保存則はどこへ行ってしまうのだろうか?エネルギーが枯渇するはずなどない、のではなかったのか?そもそもエネルギーとは一体何なのか? また、石油を燃やすと必然的に出てくるCO2は地球温暖化の原因だと言われているため、「クリーンなエネルギー」が求められているが、そもそも「クリーン」とは基本的にはどういう事なのだろうか?何に対してクリーン、誰に対してクリーンなのか?それは主観的な戯言なのだろうか?全てが何か曖昧なものに思え、確かなことはどこにもないかのようにさえ見えてくる。こうしたことは個別の問題毎に考える他ないものなのだろうか? その全体的なイメージを作ることで、基本的な方向性を定めることはできないものだろうか?
こうした問いに「エントロピー」の概念が有効な答えを与えてくれると言う何人かの人に影響されて、私は「エントロピー」の勉強をしはじめた。私は物理学の言葉であるエネルギー・エントロピーといった量、それに経済学の範疇である「金の動き」を関連させて考えていけば、「問題」を考えるための切り口が与えられる、と想像していた。それゆえ、はじめは教科書を読んでエントロピーの概念を自分なりに整理すればよいと思っていたのだが、これがなかなか難しかった。正直いって、私には、エントロピーを体系的に理解するのは絶望的な作業にさえ思えたのである。これはもちろん私自身の不勉強によるところが大なのであるが、どうもそれだけではないようなのだ。「熱力学」のエントロピーと「統計力学」のエントロピーの橋渡しがスムーズでない、非平衡の問題が体系的に分かりやすく語られる状況にないなど、いくつかの困難が存在しているのである。もっとも統計力学的エントロピー
を提案したBoltzmann自身もこうした困難に耐えかねて自殺してしまったことを考えれば、そんな状況も仕方ないのかもしれない。
いずれにしても、エントロピーを一つの切り口にしながら「問題」を考えようとしているうちにぶつかった問題があった。地球環境を考えるときには「太陽光」について考えることは非常に重要になる。我々が利用する多くのエネルギー資源は元を質せば太陽光のエネルギーに由来しているし、温暖化の問題も太陽光の吸収と熱放射のバランスの崩れというように捉えることができる。ところがそのエントロピーを考えはじめると、統一した見方が存在していないということに気がついたのである。もちろん多くの人がこの「光のエントロピー」に関して「正しい」見識を持っているのであろうが、明らかに誤った見解も訂正されることなく流布されており、それを見極めるためにはそれなりの準備が必要になる。私は学部生のとき物理学をやってきたとはいえ、自分にセンスが無いと感じていたし、いわゆる理論物理学には手を出したくないと思っていた。押さえておかなければならない事項が余りに広範囲に及び、生活の全てを勉強に投入しなくてはフォローしきれない。しかしこの問題に関しては乗りかけた船、どうやら自分なりに体系(らしきもの)を作っていかなければならないことになってしまった。まあこんな恨みがましいことを言っていても仕方がないが。実際そんなに偉そうなものでもない。ここでの取り組みはPlanckやWien等の「焼き直し」とも言いうるものだろう。大部分の作業はそうした先人達の取り組みを、私なりに再構成しながら集め合わせることにあるのだから。
この「光のエントロピー」に関する考察はこれ自体で完結したものではない。これは私にとって自分がどう生きていくかを考えるための一つの道具である。私は漠然とした不安感、恐怖感に突き動かされて環境問題、エネルギー問題などの「問題」に向かい合いたくはない。確かにそれを完全に理解し、万全の対策を施すことなど、出来はしないだろう。「問題」はあまりに複雑だ。だからといって、それを分かろうとすること、何らかのイメージを描こうとすることを放棄するわけにはいかないではないか。エントロピーを考えたところで「問題」の解決策が直ちに示唆されるなどとは思っていない。宙に浮いた「全体像」ないし「客観的・科学的な見方」が私達の進む道を示してくれるとは思わない。私はエントロピーを偶像崇拝の対象にするつもりは更々ないのだ。微妙なところを進まねばならない。私はエントロピーを語る。だからといってそれはあくまで一つの表現であり、自らの生きている状況を必死で捉えようとする営みの一部である。
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