光のエントロピーに関する考察
はじめに
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論文概要(要旨)
序論
第1章:エネルギー・エントロピー
  1-1 環境問題について
  1-2 エネルギーについて
  1-3 エントロピーについて
第2章:エントロピーの定義について
第3章:光のエントロピー
第4章:光のエントロピーの応用
まとめ
Appendix
 A 量子力学とエントロピーの定義
 B 自由粒子のエントロピー
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1 エネルギー・エントロピー

1-1 環境問題について

  「環境問題」なるものが、現在世界中で注目され、その対応策が議論されている。この言葉はかなり広範にわたって用いられており、必ずしもその意味するところがはっきりしているわけではない。最近ではいわゆる地球温暖化の問題がもっとも中心的なテーマとなっているようだが、大気や海洋の汚染、酸性雨、生態系の破壊から景観問題に至るまで、そこに込められるイメージはかなりの領域に広がっている。とはいえいずれの問題も、以前から注目されていた「公害」などと比べると、問題の因果関係がずっと複雑になり、またグローバル化しているということは確かである。例えば、以前であれば加害者・被害者といった構図が明白であるケースが中心であったのに対して、最近取り上げられる問題は「誰が」「誰に対して」ということをはっきりと言える場合はむしろ少ない。何か被害を受けて文句を言おうにも、その対象が分からなかったり、自分自身が問題を引き起こす側に関与しているためにどうしようもなかったりする。問題の構造を理解しようとしても、どこからどこまでが本当に「問題」なのか、その線引きは実に難しくなっている。その捉え難さゆえに環境問題は存在しないとさえ(少なくとも無意識的には)感じている人は少なくないはずだ。実際私にも正直言ってこの「問題」の存否はよく分からないのである。
  実際のところ「環境問題」なるものはどの程度深刻なものなのだろうか。地球温暖化の問題などは具体的にどのような被害があるかさえ、はっきりしていない現状だろう。とはいえ漠然とした恐怖に追われ、なんとか未来をコントロールしようというヒステリックな反応を示している人は以外に多いように思う。今すぐ何か対策を施しておかないと取り返しのつかないことになる!多くの場合、人は不安を感じ取ると保守的になる。倫理観に頼ってみたり、絶対的な何者かを求めてみたり、そんなふうにして精神的な安定を得ようとする。それはそれで人が健康に生きていくために必要なことだろう。だが、結果的にはそれは「問題」から逃避することでしかありえないのではなかろうか。環境問題という問題設定が、現実生活を生きるなかでの不安から逃げるための、絶対化された目的としての機能を果たしている場合が結構あるのだが、それは問題の解決へ向かうどころか、新たな問題を次々と作り出していくばかりである。
  「環境問題」という言葉を用いて語られていることは結局のところ、私達が何らかの行動をとるときは周囲に様々な影響を及ぼすものであり、それは予期できぬ形に発展することもある、ということの再発見であるのかもしれない。自分の置かれた「環境」の再発見、「現実」の再発見。今まで「当たり前」であったことが、当たり前でなくなる。自らの限界を否応なく思い知らされる。しかし、そんななかでなおもこの問題に向かうとするならば、絶望でなく希望、疑念でなく信用をもって、とりあえず何が問題となっているのか整理し、そしてそれがどのくらいの危急のことなのか自らの状況に照らして考えていく、そんなことを焦らずに繰り返していくしかないのだろう。多くの具体策が練られていく中、こんな抽象論を語ったところで仕方ないと思われるかもしれないが、こうした問題をとばして空回りしている人達を見るにつけ、問題の本当のありかは人の心の中にあるような気がしてならないのである。


1-2 エネルギーについて

  現在はそれほど深刻に語られる機会は少ないように思うが、いわゆるエネルギー問題、資源の枯渇という話は、その意味で幾分実感のもてるものではなかろうか。どうやら50年後には石油がなくなるらしい、そんな話を初めて聞く時には何か漠然とした不安をもつものだ。車に乗れなくなる、電気が使えなくなる、ひょっとしたらまた戦争でも起こるかもしれない。不便なことが一遍に起こりそうだ、そんな風に感じるのだ。私達は日頃の居心地の良い生活を簡単に捨てることはできない。やはりなんであれ、変化というものはそれなりに不安を催させるものである。それが自分の生死に関わるかもしれないものならばなおさらだ。「不安」、それは私達が生きている限り続くものなのかもしれない。
  もっとも、「将来のエネルギー」をなんとかして確保せよ、と声高に叫ぶ人達などは、実際に起こるであろうことよりもずっと破滅的な予感を抱いているように見える。使命感、そしてある種の陶酔感にさえ浸りながら、彼らは周りの人々を不安にさせることに情熱を燃やす。現在の状況が如何に危険かということを宣伝したあと、やらなくてはならない事、負うべき義務を指し示すのである。これに対峙させうる自分なりの思想、言葉を持つ人はそんなにいる訳ではないので、多くの人が彼らに付いて行く道を選ぶ。奇妙に肥大化した不安を原動力にして科学技術への「信仰」はますます強まり、将来の安定、安全の確保を目指して様々な対策が練られていく。原発、太陽光・風力などの「自然エネルギー」利用、核融合等々数多くの研究がなされ、巨額の予算が投入される。もっともらしい理由がついても、結局その原動力はいつも「不安」なのである。
  私はここで展開する論によって、「不安」からの完全なる脱却の方法を模索しようとしているのではない。そんなものはマヤカシにしか過ぎないだろうし、私はこれを読むあなたを、そして自分自身を騙すつもりはさらさらないのだから。私が意図するのは不安と向き合うための方法論の確立である。(もっとも本当に確立されることはないのだろうが。)自分が何らかの問題に直面したときに、漠たる不安に飲み込まれていくのでなく、これと向き合い、対話していくための言葉を創っていくこと、それが私の目指すところなのだ。エネルギー問題の様に対象となる領域が広大な問題に向かうことは、実際のところ絶望的な作業に思えるものだが、言葉を研ぎ澄まし、多くの人と生きた関係を築いていくなかで、何とか「正気」を保っていくことができるのではなかろうか。
  エネルギー問題はいわゆる環境問題とほとんど表裏一体である。一方は資源の枯渇、一方は汚染や破壊である訳だが、どちらも人間が自らの行動の帰結を考えずに、或いはそれなりに考えるにしてもそれを無視・軽視することで引き起こされてきた問題である。自然環境に蓄えられていくある種の歪み、それは次第に大きくなっている。こうした「歪み」をエントロピーという言葉を用いて理解していくことがこの論文の一つの主題となるわけだが、私は必ずしも「結論」を出すためにこの論文を書く訳ではない。あくまで理解を深めていこう、可能性を模索していこう、というプロセスを指向するだけである。私にはこうした問題がそもそも「問題」であるのかどうかさえ分からない。敢えて「問題」であるというならば、それはむしろ人間が健全に生きていない、というところにあると思う。健全に生きるとはどういう事か? この論文はそうした「問題」の核心に迫るための、言わば準備段階としての意味合いをもつ。


表1-1 人間による一次エネルギー消費[2]
全消費量 ( kcal/year )

日本 4.8×1015

全世界 8.0×1016
一人あたり消費量

日本 3.9×107

米国 7.8×107

全世界 1.4×107
人間の食料 → 平均2400 kcal /day
          = 8.8×105 kcal/year


表1-2 食料とその他のエネルギー [2][7]
食料 : その他
B.C.400 ギリシャ 1 : 1
A.D.1600 英国 1 : 3
A.D.1800 英国 1 : 7
1950頃 世界平均 1 : 12
1992 世界平均 1 : 17
1994 日本 1 : 44
米国 1 : 90

  そもそも私達にとってエネルギーとは一体何なのだろう?それは電気であったり、ガソリンであったり、様々な形で私達の生活を支えている訳だが、何より基本的なエネルギーといえば、私達が生存のために摂取する食べ物のエネルギーであるに違いない。他は譲れても、こればかりは言わば絶対不可欠なエネルギーである。食料が石油や電気といった他の全ての「エネルギー」と同じものだということには奇妙な感じを受けるが、科学的な視点からは統一された単位系を用いて「量」として表されうるものなのである。例えば表1-1、表1-2のように現代社会において私達が消費しているエネルギーの量を、食料との比較によって捉えることができる。かつて人間が自らの肉体を使って行っていた作業は、次第に馬や牛などの家畜、さらには電気や石油で動く機械によって代行されるようになっていったが、こうした道具もやはり「食料」を必要としているのであって、それが「エネルギー」なのである。日常の仕事を代わりにやってくれる「分身」達のおかげで、私達のとり得る行動は非常に幅広いものになった。それは「豊かさ」というものなのかもしれない。この「豊かさ」も例えばGNPなどの経済指標によって「量」として表現することが出来る。それはエネルギーの消費の上になりたっており、当然この二つの量は密接な関係にある。図1-1を見てもこのことは一目瞭然であろう。


図1-1 日本のエネルギー消費とGNP[2]

  ところでここで「量」ということについてちょっと考えておきたい。お金にしてもエネルギーにしても何か「量」をあらわすものである。その実体はともかく、数字を見ると私達は何となくものごとを分かったような気になれる。だが、数字は決して絶対的なものではなく、あくまで一つの言葉であり、道具である。それは確かに能弁で、非常に大きな力をもっているのだが、それ単独では本質的なことを何も語りはしない。エネルギーにしてもそうで、このあとで議論するようにエントロピーという別の「量」を持ってくると、実はかなり「感覚的」な、宙に浮いた話をしていたことに気づくのである。数字は「何故?」という問いかけを締め出す力をもっている。私達の無意識は絶対的にみえるものにはとにかく弱いので、すぐにこれに頼り切ってしまうのだが、それは危険だと言わざるを得ない。資本主義と呼ばれる社会システムは、私達の「不安」に乗じて貨幣という絶対的な「量」への服従を要求する。同時にこれは物事を見る時に自分の目を通して見るのを止めることをも意味する。自らの置かれた「環境」を見ること、感じることを放棄することは、必然的に環境問題、エネルギー問題の種を孕んでいるのである。お金やエネルギー、エントロピーなどの「量」を用いて自然や社会の分析をする時、この事には常に注意しておかなくてはならないと思う。

  私達の全ての活動はエネルギーを「使う」ことによって初めて可能になる。経済活動ももちろんその一部である。しかしエネルギーを使う、消費するということは、一体何を意味しているのであろうか?また、これに対してエネルギーの「生産」を考えることができるだろうか?例えば太陽電池の開発をするというとき、新エネルギーの研究をするというとき、それは何を意図しているのだろうか?「エネルギー」という言葉を物理学の定義に従うものとして考えれば、それは不生不滅、保存される。だとすればエネルギーの「消費」や「枯渇」などという言い方は明らかにおかしいことになる。では今ここで私達の考えたエネルギーとは一体何か?
  この問いに科学的に答えることをここで試みることにしよう。自由エネルギーやエクセルギーをこれに対応するものとして考える人がいる。(ここでは詳しい解説を行う余裕が無いので[3][27]などを参照して欲しい。)だが、こうした概念は実は限定された側面でしか用いることができない。自由エネルギーはその定義、導出過程を考えれば明らかだが、周囲の系、つまり熱浴が問題にしている系と比較して無限に大きい時にのみ用いることができる。また一見明快な論理の上に成り立っている様に思えるエクセルギーだが、「熱」を考える時には理解の助けになるものの、他の局面では却って混乱を引き起こす原因ともなる。その限界を知りながらこうした概念を用いるのは大変有効なのだが、時として濫用されることも気に留めておかなくてはならないだろう。
  こうした「エネルギー代用概念」は基本的にエネルギーとエントロピーの折衷概念である。「枯渇するエネルギー」のようにエネルギーの質を問題にする時には、エントロピーの概念を持ち込まなくてはならない。エネルギーとエントロピーは2つの独立な変数であって、自由エネルギーのような折衷概念を持ち込んだところでそれを完全には表現できないのだ。もちろんそれで事が足りることはあるが、だからといってそれを全面的に応用できるとは限らない。結局、私達がエネルギー問題などと言うときには、物理学のエネルギーとエントロピーを折衷した何らかの概念をイメージしていることに注意が必要である。


1-3 エントロピーについて

  物理学の立場から言えば、私達がエネルギーを「使う」ということはその「変換」を意味している。エネルギーが不変である以上、それは単に形を変えるだけである。しかしその際にエネルギーの「質」が変化していると考えることが出来て、それを表すのがエントロピーという「量」である。エントロピーが大きくなればなるほど、エネルギーの「質」は落ちる。「消費」というのはモノのエントロピーを増大させることを指している。生きること自体、食べ物を体内で燃やし、エネルギー変換をし続けることなのだが、これは同時にエントロピー増大を積極的に進め続けるということをも意味する。
  熱力学の第二法則を信じるならば、エネルギー変換をするときには全体として必ずエントロピーが増大する。ある限定された領域でエントロピーを減少させることは可能である。しかしこうした場合には、同時に別の領域でそれを上回るようなエントロピー増大過程を伴なっていなくてはならない。例えば発電所で熱を電気に変換するというような、一見エントロピー減少過程に見えるものでも、広い視野で見れば必ず高エントロピーの熱への変換という過程を伴っているということである。これはまた、カルノー効率とよばれるような、変換効率の限界が存在している理由でもある。

  私達は食べ物を燃やすことによって得る熱を、マクロな「仕事」、運動エネルギーに変換している。むろん得る熱を完全に仕事に変えることはできないし、体内には高エントロピーのエネルギーが蓄積される。これをそのまま留めておいたら生命として機能しなくなってしまうので、何らかの形でこれを外に捨てなくてはならない。具体的にはこれは発汗、排泄などを通じてなされる。私達は生命活動によって生じる余分なエントロピーを低エントロピーのエネルギーないし物質に擦り付けているのである。生きていくということはエネルギーの変換をすることであると同時に、自分の体内のエントロピーの増大を制御することでもあるのだ。これは自分および身の回りの環境のエントロピーを減少させようという闘いなのである。
  もちろん経済活動においても同様なことが起こっている。「生産」活動は多くの場合、高エントロピーの原料を、低エントロピーの製品に変化させることである。このとき同時にエントロピー増大過程が起こっていなくてはならない。それは具体的には電気を熱にすることであったり、石油を燃やして二酸化炭素や水に変えることであったりする。エントロピー的な観点から言うのであれば、純粋な「生産」などはありえないのであって、全ての活動は全体としては「消費」なのである。こうした発想をもとに、人間社会のシステムを捉え直す試みが少しずつ現れてきており、今後はさらに大きな動きになっていくと思われる。
([4][5][6][8]等)
  注目する「系」に関しては必ずしもそうではないが、環境も含めたトータルのエントロピー量は常に増えている。ただしその増加量は変化の経路によっていくらでも変わりうる。社会生活の中での「生産活動」においては、「効率」を上げることが求められるケースが多いが、これは多くの場合、エントロピー増大を極力抑えることだと言い換えることができる。また現代において不可避の問題となりつつある「環境問題」の解決は、系の外すなわち環境に捨てるエントロピーをいかにして減らすかに懸っている、ということもできる。そうした意味でも様々な局面におけるエントロピー変化―エントロピー収支―を追うことが、生産活動や環境問題への対応に何らかの指針を与えてくれるのではないかと私は考える。
  なお、ここで述べていたような考え方を模式図にすれば下のように描くことが出来る。ここで横向きには通常私達が意識するエントロピー減少変化を表し、それに伴なうエントロピー増大過程を縦の向きに表している。([30]p.74などに詳しく述べられている。)





 

  ところで、どんな変化においてもエントロピーが増大するとすれば、地球という系は先々どうなるのだろうか? Bouldingという経済学者は、地球を宇宙に浮かぶ小船、「宇宙船地球号」に喩えた。かつて無限に大きく見えた地球も、現代ではすっかりちっぽけなものに感じられるようになった。この孤立した系においてエントロピーは増えるばかりで、遅かれ早かれその内部のエントロピーは極大に達し、エネルギー変換が全く出来なくなるのだろうか? ある系のエントロピーが極大に達したとき、その系は熱平衡状態にあると言う。地球はやがて熱平衡に達するのであろうか?これを「熱死」と表現する人もいる。私達には細く長く生きるか、太く短く生きるかという選択肢しか残されていないのだろうか?地球はいずれ熱死してしまう運命にあるのだろうか?
  こうした発想はあまりに単純かつ悲観的なものだと言わざるを得ない。熱力学を正当なかたちで運用すれば、ここには大きな間違いがあることは明らかである。地球において生じるエントロピー(増大した分のエントロピー)はその内部に溜まっていくわけではない。地球は外部とエネルギーそしてエントロピーをやりとりする「開いた系」なのである。エネルギーの交換は「光」「放射」の形で為されるが、光はエントロピーをもつため、この際同時にエントロピーのやり取りも起こる。太陽から届く光は低エントロピーエネルギーであり、出て行く光(赤外放射)は高エントロピーエネルギーであるため、地球自体のエントロピーが一定に保たれたり、減少することはなんら不自然なことではないのである。これを先程と同様の模式図で描くことができる。




地球環境やエネルギーの問題を議論する際にエントロピーの概念を用いるのであれば、地球で生じるエントロピーは最終的に赤外放射の形で宇宙空間に捨てられていることを理解する必要があるだろう。しかし、こうした議論を定量的な形で行うためには「光のエントロピー」に関する詳細な考察が求められる。量子論の黎明期にPlanckらが取り上げて以来、光のエントロピーについては系統だった説明が為されていないため、これ以降の章においてはそれを試みることにする。