Old Diaries

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2000年(開発部門での仕事)

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 ◆ 6/28  私を不快にさせるもの
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2000/1/3


粉々になった心をかき集めながら、日々を暮していくが良い。統合され得ぬものをあたかも一つの直線的な論理に従うもののように見なし、ぬるま湯に浸り続ける人間は、自らの弱ささえとらえることもなく、人を笑い、神を笑い、幻の世界に住む。その馬鹿さ加減には愛想も尽きる。弱きものとしてとらえたところで、彼らはますます硬化し、うらみを心の内に積み重ねていく。なんと悲しいことが、この世界には起きるものだろうか…。だからとて、ともに生きる者を切り捨てていくときには、我に残されるものは残酷な冷笑。光は遠く、かすかなものなりけり。


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2000/1/31 空しきループ


自己への絶望 → 虚構。世界への絶望 → 甘えられないことへの憤り → 面倒臭がる → 自己表現へのあきらめ → ニヒリズム → 自己神聖性の他者への押し付け → 失敗 → 自己と国家/権威の一体化或いは退行 → 幻想としての共同体 → 疎外と安住 → 揺乱要素の排除、抑圧 → 社会化 → 政治ゲームへの没入 → 自己の喪失 → 自己のでっち上げ → 現実とウソの崩壊 → 生の感覚の喪失感 → 分裂症 → 藁にもすがる → 強迫神経症 → 神の顕在化 → 孤立 → おびえ → 怒りという名の恐怖 → 誇大妄想 → 自我の肥大 → 資本の自己増殖 → 死からの逃走 → タナトスの抑圧 → 永遠性および過去への固着 → エロスの死滅 → 「子供」 の抑圧・虐殺 → 罪悪感 → 現実性喪失による自己防衛 → 被害者妄想 → ファシズム・ナチズム → 歴史性からの逸脱・超越 → アホらし


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2000/2/11

 様々な観念、想念が浮かんでは消える。書きとめようとすることは何故か空しい。小銭をせっせと溜める感覚。蓄積への意志はスカトロジーである。それは 「文化」 と呼ばれるものではなく、生存のための必死のあがきでしかない。死を、存在の消失を恐れぬ者は、あるいは神に帰依する者は、蓄積という行為をよしとはしない。将来への不安、自らの野望のために、現在を固定化し、死せるものとなし、そうして備えを万全とする。アリとキリギリス。アリを讃えよ。時間銀行にせっせと貯金するがよい。時は金なり、金は時なり。何故、人は現在を生ききることに、これほどまで怯えてしまうのだろうか。空っぽに痛む心と体を抱えて、京都の地へ向かう。

 私には美しいものを創りだすだけのセンスが備わっていないのです。そんな自己批判を犬に喰わせたい。不安で、どうしようもないくらい不安で身ももだえんばかりというのに、現象としての私という人格は、かくも自信に溢れ、我が道を知るかのように、日々振舞っている。自己の卑小さを受け止めぬ人たちよ、迅く迅く失せよ。
 あぁ、空しい叫びは私の脳裏で延々とコダマし、煙草の煙とともに眼前の空間を満たしていく。言葉は滑りつづけ、私を弱らせる。窓の外は雪に覆われた村々。そこにはきっと生活があって、数々の矛盾を覆い隠しながら春を待つ精神が抑圧に苦しみ、それでもなお生きる人がいる。きっと。

 倫理体系がつくられねばならぬ。生きていくための経済として。合理性などという泥にまみれたものに頼る気などありはしないが、同じことを繰り返してばかりいる中で、自らが強迫症に陥らないためにも。それは論理的になされるはずだ。もっとも高度な論理性は矛盾をも包括せねばならぬ。生きるための知恵。それを凝縮し、生活に還元する。判断基準、価値基準。それらは語られぬ限り、暴虐な差別と抑圧として機能する。語られた上で、はじめてそれがテーブルにのるというものだ。自己規定のあるところに、自己の一貫性はある。人間の意志は自らの心を支配できぬ。ただそれを少しでもよい方向に導くだけ。明るい世界は遠くて近い。



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2000/2/15


奴隷は自ら奴隷と化す。サラリーマンは好んでサラリーマンとなる。そこに救いの必要性はない?社会という一つの体制から逃げる者は、振り返ってその逃れられぬループに気づくこともなく、自らの王国を探し続ける。そこには救いの必要性がある?神の国は遥かに遠のき、言葉にされぬ絶望が世界を満たす。かくも暗き世界をいかにして生きる?可能性を創り、壊し、壊され、ひたすら踊り続けるのみ。同じアホなら踊らにゃ損ソン。何故?何処へ行く?

埋もれずに生きようとすれば、ひたすら汚れなくてはならない。汚れずに生きようとすれば、ひたすら埋もれなくてはならない。
ギラギラ光る世界での絶望か、薄暗がりの中でのまどろみか。

単純な二分法は
詩としては成立するかもしれないが、
世界を前にしたとき
崩壊と生成を繰り返す。
それそのものが詩?

ダイナミズムの奪われた有機体は、やがて死へと向かうのは明白。さりとて死を逃れる術はない以上、沈み行く船に乗り続けるのも一興。バカはどこまでもバカなのだから。それは --- あなた?

−−−

今日を生きよう
自己ヒハンも他人への文句も
溶かしてしまうくらいカッコイイ音楽聴いて
涙に呑みこまれながら
暗闇に抱かれながら
あっちの時間とこっちの時間がつながって
こことあそこがぐるぐるねじれて
どーにも こーにも

旅立つのは明日でいいから
そうやってズルズルと伸ばして
気づいてみればズイブンたってるなんて
そんなふうに

許し、許し、許し、
そうやって生きよう
泣いてグチャグチャになってしまう
それでいいから
優しくて、悲しくて、はかなくて

−−−

Practical な、生きる方法論を考えるか
例えば空を見る、あいさつする、音楽を聴く、愛を語る、運動する

人を責めることは、人の批判をすることは、
やっぱり自分に返ってきて、
人を見る目はつくかもしれないけれど、
空っぽな気持に侵されていく

自己批判をしたところで
自己改造計画を建てたところで
攻撃性を増し、悲しみを深くするだけで

自分が何で生きてるかなんて
分からないまま

悲しい

少し狂ってるんじゃないか?


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2000/3/7


激しい情念の起伏。疲れとともに磨耗していく精神。身を引いて、自己を確かめなくては。それは一つの倫理たり得る。有限の責任。永遠を先取りすることの禁止。

今を生きることが全て。
将来のためと称し、現在を抑圧する。
自らの死を受け容れ、認識するとき、
次の瞬間は全く不確定なものとなる。
「将来のため」 という言葉は意味を失う。
永遠の子供へと退行した輩どもは、
死を仮象化し、崇高な目的へと形を変え
あるいは 「明日」 という名の像と為す。
明日は可能性としてしか存在せぬ。
永遠という世界のX座標の値ではない。
かくも自明たる現実を人は虚構と笑う。
どちらでもよい。どちらも虚構。

政治とは、状況に応じて変わること
倫理とは、どんなときにも変えないもの

「本質的」 などという言葉は倫理に付随する。
科学のエッセンスは倫理的
科学の表現は政治的


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2000/3/12


美しいものを愛しなさい。
正しいものを愛しなさい。
醜悪なものは心を荒廃させる。
線の引かれぬものは暗闇に呑みこまれる。
そんなギリシア的な観念論で乗り越えていける世界じゃあないけど
やっぱり生きていくための知恵として、
生活のなかの倫理、価値基準をおのれの肉に刻み付けなくては
言葉は空回りする。

ぐちを言い続けるということは、心理的にはとても大事なこと。
だからといって政治的には、時として致命的な悪影響をもたらすことがある。
生きる知恵として、黙る。
それは肉に刻まれ、複合体と成り、
社会を固着化させていく。
混沌に慣れよ。

集約されない思考を垂れ流したところで、何のためになろう?
そう思ったところに美は生まれ得るけれど、
それは紙一重の出来事であって、数学的、論理的な発想とは、
そこに閉じ込められるわけではなかろう。

プロセスそのものを志向するか。
結果を志向するか。
そこにある弁証法のなかに、
多大なる生の源があるのではないか?

我が道を行く。孤独な。
だからといって、結構楽しめるものじゃないか?

自己の一貫性とは
どこまでも飛躍する自己を
視野に捉え続けることである。

−−−

物事が解決されずに、
何か混沌とした、不安をもよおさせ状態に置かれ続けるとき、
我が身は暴走を始める。

もっと泰然とガラクタの上に座り続ける、
そんなメンタリティを持っていたらいいのに。
ちょうど我が愛すべき部屋のように。

血の気が多いのも考えものだ。
肥大化していく自我は、
情念の垂れ流しそのもの。
だからといって超越を求めてしまえば、
この世はフェードアウトしていき、
神は死ぬ。

神を讃えよ。
我に我が生を与え給うた、神に感謝。
アーメン。


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2000/3/22


 ものごとを 「分かる」 というのは難しい。人はどこまでも錯覚の中を生きる。 Detail を詰めていき、自ら生産者となるとき、表現され得ぬものがかくもあることを知る。否、表現されていたにも拘らず、見落としていたことが発見されるのだ。「見落とす」 というのは正しくないかもしれない。それまでは存在しなかったものが、気がついてみればそこにずっとあったのだ。驚き。そう、そこには驚きと感動がある。自らの卑小さを知り、自らの視野の狭さに驚き、もの言わぬものの強さを知る。そこにも営みがある。生活がある。生を刻みつけていく何者かが存在する。我が生を刻め、緻密な細工のなかに。それが生きているということ。

 「学び」 はいつも模倣にはじまる。模倣が貫徹されることは美しいことだ。そもそも言葉なるものも所詮ものまねに始まる。我々はマネを続けるうちに、いつしか original なものに辿りつくのだから。原典を失ったところに 「学び」 はない。自己主張のみに堕ちていくとき、自らがいかにモノマネでつくられているか、それを思うと良い。「新しいもの」 などは結局偶然の産物でしかない。悲しいことに、我々は original な存在たりえない。しかし逆説的に、やはり original にならざるを得ない。すべてはモノマネで、すべては original 。弁証法が機能してさえいれば。


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2000/5/25


「ひととは」

多様性とは名ばかりの限定された存在。
自らの運命を決めることなどできず、
神の手の上で踊りながら、
自らの力を信じかつ奥深いところに諦めを抱え込み、
ちょこまかと動き回って無駄なことをまき散らす動物。
そして増殖する。
所詮突然変異でしかなく、
所詮泡でしかないというのに。
見よ、かの泡の踊る姿を。
醜くも滑稽に、
悲しさを催させるくらい、
美しく、
吐き気がするくらい、
うじゃうじゃ、
もぞもぞ、
ぴょんぴょん、
生きている。
私の悲しさと、くやしさと、喜びと、
ぐちゃぐちゃに翻弄される感情も、
拡散して透明になっていく思考も、
人間というおかしな存在として、
ある種の必然性をはらみながら、
肉体化され、
血を流している。


「ことば」

馬鹿な妄想を持つのは止めなさい。
言葉は結局のところ無力。
子供にはわからない大人の世界。
言葉を使いこなすと言うことは
その無力さとともに在るということ。
軽やかに滑り落ちていくのは、
あなたの命なのかもしれない。
言葉に命が吹き込まれるとき、
生は還ってくる。あるべきところに。
ことばといのちとは離れられない。
再合一がなされるとき、
人はついに動物に還ることを許されるのだから。
あるいはこう言ってもよい、
罪は許される。
暗い世界。言葉なき世界。
明かりを探すより、暗闇に還れ。
そこには完全なる光がある。
かもしれない。


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2000/6/28 「私を不快にさせるもの」


迎合、保身、ケチ、見栄(俗っぽい)、
ゴマカシ、甘え、攻撃性(場合による)、
無責任、無意識的言動の垂れ流し、
規則への従順、あきらめ、逃げ、
表面的なモノマネ、自己卑下。


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2000/7/6


思い出。感覚的な、嗅覚的な、言語化されぬ。
それがオレを作り、オレを支える。
「思い出」などというより、むしろ自分そのもの。
自分の過去はついつい忘れてしまうのだけれど。
それは一貫性の生じる場所。まどろみ?
音楽はオレにとって記号となる。
少しだけでも自らの在り処を教えてくれる。
ふう。生きていくのは本当にしんどい。

この混乱した世界の中で、自分の生きていることを
思い出させてくれることがあるのは幸せだ。
過去にしがみついても仕方はないけれど、
過去を認め、それと一体化できぬかぎり、
生きていくことは単なる惰性としてしか現れてこない。

私には倫理が必要です。

弱き人間は何かに従ってしか生きていけない。


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2000/7/22


寝不足気味で、脳みそを使わず精神のエネルギーを使わずに過ごした方が、あとのダメージが少ない。
そんなところでズルズルと生きていたらオレはダメになる。ダメになるののどこが悪い?
これだけ世の中ダメになってる (無意識的にせよ) なかで、ものを考えるのを止めたところで、何と言って問題がある訳でもない。
ただ一粒の砂へと帰っていくだけ。
自己実現だとかそんなものはくだばれ。
真正面からモノを考えなくなったとしても、情念はこぼれ出し、結局は同じこと。
ただ 「みっともない」 だけ。みっともなくていいじゃないか。皆は自分がみっともない等ということは考えてもみないだろうが。
尊厳を失い、思考を捨てた人間は、もはや動物となるか?もともと動物だ。
ズルズルと、まわりにもたれながら、足を引っ張りながら、オレたちは生きてる。


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2000/7/26


 どこで、何をして、どのように生きていくか。それは結局のところ運命に支配されている。だから僕らはそんなことを考える必要もないというのだろうか?そんなことを言っても余計なことは常に考えてしまうもの。人生の針路変更は 「逃げ」 としてなされない方が精神衛生上よろしい。ギリギリに追いつめられたときは逃げるにしかず。とはいってその傷は心に残る。無意識のうちに蓄えられた 「負け」 の感覚、コンプレックスを拭うのは容易ではない。Positive な状態で身を動かすのがよい。さて、ではどこでその判断を下そうか?何を明るいと思えるか?何が自分に幻想として働きかけるか?難しいことは考えないようにしよう?結局のところ苦しみの中でもがかぬかぎり、明るいものなど存在することはない。ゆえに、世界が僕に飽きたとき、僕の行動は決定されるだろう。

 さすがに7時に帰れるとモノを考える余裕がある。これならば生きていける。僕はそうして生きていかねばならない。会社など潰れてしまえばいい。そうなるように運営されているのならば。人を背負うことなど簡単なことではない。一人でさえも。ましてや会社なぞと。
精神を正常に保つことで、周りに健全さを分け与えるのがよい。その方が互いが足を引きずりあって泥沼にはまっていくより合理的だ。誰のために?何のために?働いていることの意味を思うとき、自らの行動は自明なまでに限定されていく。「逃げ」 とならないよう、理論武装して、合理性のもとに身を引けばよい。かくも当たり前のことが、追いつめられた精神には見えることがない。悲しいかな。

 抱えている仕事があるときは憂鬱。憂鬱を通り過ぎて考えすぎれば、そこには暗い一本道、虚無が在るだけ。だからといって、ハマってしまうときは、自力で自分を救い出すことは難しい。周りの人間に引っ張り上げてもらうか、過去の自分に助けてもらうか。あるいは歴史をさかのぼり、力ある言葉を語りかけてくる人々と時空を超えた共感をつくり出すか。Positive な救いと Negative な救い、世界には二通りの救済がある。どちらをとることも人間には許されている。パラノイアへと転がっていくか、分裂症へと沈み込んでいくか。正しい道などありはしないけれど。徹底的に意識化へ向かうか、コトバを捨てて動物へ向かうか。
倫理を刻め。


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2000/8/31


知らぬことはいつも山のように存在している。
放ったまま前に進んでいくものの、時おりそれが明らかになって愕然とする。
それを当たり前のこととして処理しても、やがてはもっと致命的なことにぶつかる。
恥を知るということ。無知を知るということ。
実はそこには「進展」のカギがある。
世界の広がりとその喜びがある。はず。

ゆっくりと学べばよい。忘れながらも。
仕事である以上、可能な限り細かく書き留めていくとしても。
それはちょっとした習慣なのだから。
それでもゆっくり。
全ては許されている。
あわてない。

ただ、今日もよく働いた、と言えばよい。
疲れてゆっくり休むだけ。
思考はそうして停止するなかで深化するかも。



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2000/9/6


何に対して憤るか?正義とは?倫理とは?
皆に鼻で笑われながら一人で闘う。

怒りは悲しみはやがて消えていく。
それでよいのだ、日本人としては。
一時的な感情の発露として全てを処理してしまえばよいのだから。
そうして感情はやがて鎮まっていく。

言葉にされぬそれは、心の底に沈み行き、
いつしか固着したコンプレックスとなる。
それは人格そのものであり、社会的な存在として生きていく以上、
それを抱えて生き続けていくしかない。
解決などされぬ。世界が滅びぬかぎり。

感情のコントロールは可能か?
感情と一体化してしまうのではなく、共存していくことは可能か?
絶望的、さりとて。

他者に動ぜず生きていけたらいい。
何事にも動ぜず進んでいけたらいい。
それは必ずしも鈍磨を意味しない。
自分の中に何らかの信仰があれば。
生とはそのようになされてしかるべき。

動じて動じて、哀れなくらいに怯え、方向感覚を失っていくとすれば、
それは信仰の足りなさによるものだ。
さりとて人はあくまで人であり、超越を目指したところで仕方ない。
弱き人間として生きるのみ。

生産に向かうか、消費に向かうか?
動ぜず、さりとて新しいものは吸収し、
という矛盾した命題に立ち向かう時、
新たなものは産まれる。
創り出す行為なしには、人は生きられぬ。

−−−

O氏の分析
  タブー ・・・ 暗いこと、事業の失敗、会社を辞める、価値の非共有
  価値 ・・・ 論理的明快さ、社会的な支持、和、力(自らの位置)
  背負うこと ・・・ 自分の不利な状況は受け容れない。常にそのために政治
  政治性 ・・・ 多数派工作、力関係の明示
  言語 ・・・ 社会的に定着したもののみを言語とする、普遍言語(共有でなくアプリオリ)
                                    → 無意識の抑圧 ⇒ 無意識の垂れ流し
  ヒューマニズム?
  怯えと怒りとの混合(倒錯) → 陶酔感


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2000/9/13


 会社を辞める。カナダに行く。3年ほどねばる。そんな像を描きながら、高揚し、そしてまた暗い気持へと沈んでいく。何故?自分が周りの人間をシンドクさせることに対する罪悪感からか?人の裏切りをののしりながら、自らが裏切ることに対する恐怖からか?誰から冷たくされることが嫌なのだろうか?論理的には間違っていないはずではあるけれど。
 それにしても、何故こんなに背負う?これだけ背負い、苦しんだら、もういいじゃないか?もっと軽やかに生きる時があってもいい。自らをもっとしなやかに変えていくためには、今の場所に居てはだめだと思うのだから。別に自分だけ苦しんでいるわけじゃない。明るいもの、正しいことを探したいだけ。受身で時間が解決してくれるのを待つのではなく、自ら明るいものをつかみに行きたいだけ。
 転がり続けろ。

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2000/9/26


 藤沢に通うのは楽だ。時間的、肉体的にはともかく、精神的に。何というか、「普通」になれる感覚がある。そこにはヒューマニズムがあり、会社の枠を超えていく可能性を持つ「仕事」がある。特殊を無意識的に普遍化する、そういう心理にはなりにくい環境。現業の人がいつも一緒に居ることもあり、雑多な人間がぶつかり合っているからか?メーカーとは基本的にこうであって、「エンジニア」と名を変えたところで、やはりモノをつくる一人の人間でなくてはならない。これからどう転んでいくかは分からないけれども、生きていくための平衡感覚を失っていない人達が存在しているのは良い。人の上に乗っかって、指示だけしている頭でっかちな仕事は精神を蝕む。自戒せよ。身体を自由に動かせ。辞めるかどうかはとりあえず置いておいて。

何かを集約する時。収穫の秋。
創造とは宙に浮いたものを
必死になって地平にひきずりおろすこと。
固めて、自分も固められて、
ともかくも何かを吐き出さなくては。
生の生たる時は少ない。
限られた生にとにかくしがみ付け。


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2000/10/4


 こんな風な仕事の進め方でも、結構ちゃんとした結果を出せてしまうんだ。脅しと、仕事のなすり付け合いと、全体像の欠如と、ごまかしのなかでも。これでいいんだ・・・。安堵感と空しさ。何をやって足掻いたところで、実際のところそれなりに無難なところに落ち着いていく?小さなミスや、時によっては致命的なことも、こうやって終わってみれば忘れ去られていく?たかが開所式ではあるけれど、十数人で寄ってたかってとりあえず自分の出来ることをやっているうちに、それなりの結果がついてくる。そりゃあそうだ、皆頑張っていたから。
 オレに何が出来たかといえば、思いついてすぐに手直しをして、消えていくことばかりだ。これでいいのか?いい加減なことをしても、まぁ何とかなる、とりあえずやれるところまでやる。サラリーマン根性が染みついていき、生きていくことは楽に、雑になっていく。そう、そんな風に何とかなるなら、オレなんぞいなくたって別にいいじゃないか。自己主張をしたいのか、オレは?これでいちおう一区切りをつけて気持を切り替えて、またやり始めればいい。終末論的な発想は、やがて悪は裁かれなくてはならないという確信に変わり、やすらぎを失わせる。素直じゃないのさ、オレは。次の問題を延々と探し続けている。何のため?ひとより一歩先に問題をみつけることは世間において評価される。予言者。それは精神をむき出しにさらして、防衛機構を破壊することで行なわれる。それでいいのか、ああ。
 納得いかぬ想いを抱え、話のわからぬ相手を呪い、孤独をまぎらして、人は仕事をする。達成の喜びくらい、ゆっくり味わえばいいのに。それにしてもこの程度で皆誤魔化されるか?
 要は自分の納得いくことをやれていないということなのだ。向上心?コンプレックス?正義感?そんなくだらないもの。矛盾ばかり、すべて矛盾ばかり。迷宮入り。何故?何故自分を穴に埋める?矛盾を自覚したうえで許容すればいい。全部ぐちゃぐちゃになったっていいのに。ほんの少しの見方の違いで、世界はばら色?
 疲れているのさ、きっと。頭の中が一杯になって。体を休めてから、軽やかにやれることをやる。強迫に負けないためには、実践が第一。誰も何も教えてはくれない。この世は孤独。開き直って見れば、この世は天国?頑張ってる人がいる。自分も頑張ろうと思うけれども、どうも疲れていけない。ぐったりしてくる。今日は、今日も、どうかしてる
 世の中はこうして廻っている。


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2000/11/18


 連夜の残業。働けど働けど、前に進んでる感覚がないのは、何ができて何ができないか、あるいはここまでに分かったことが整理されていないから。ただキツイという感覚が精神をマヒさせていく。仕事をするということは、すなわち整理をしてそれを他人に分かるように表現していくこと。時間がないから整理しないのか、整理をしないからズルズルと働くのか?いずれにしても分からないことは山積で、とりあえず分かることだけをまとめていく。いつまでたっても 「とりあえず」 となってしまうのは、皆がせっかちに結果を求めるから。だからと言って仕事なぞそれ以外の形でやっていくことは現代においてほぼ不可能。追われて、とりあえず形にして、そこにそれなりの自信と誇りを持たねば。納得行くまでやれることをやりたい。
 でも修士論文を書きながら、オレは人に命令されるほうがいいと思ってサラリーマンになったのも事実だ。どこまでもアンビバレントで、落ち着くことなく、いつも反対のことを夢見る。今居る場所を認めて、どこかで覚悟を決めていかない限り、オレは常に文句ばかり言う人以上のものにはなれないのだろう。腰を落ち着けて、他人のことに耳を傾けず、自分の仕事に専念すればよい。自分に出来ることは限られているし、限られていることを自覚せぬかぎり、まともな仕事を達成することはない。

 終電待ち。外は寒いので下永谷で待つ。15分もあるのには参ってしまうが、一人でゆっくりものを考えるにはいいのかも。働きすぎによるマヒなのか、休み前だからか、比較的明るい気分になっている。珍しい。疲れてる、諦めてる、でも悪くない。ヒューマニズムの幻想ゆえ?明るく冗談を飛ばしてそれなりに・・・。

正しいことは何ですか?
正しいことは存在しますか?
結局のところ自分の快・不快が全て?
究極の合理性なるものを考え、
そこにヒューマニズムを見るとすれば、
それは一体何処に行くのでしょうか?
果たして人間にはそこへ行くことが可能なのでしょうか?
弱さを認め、神の永遠性を信じ、
自らの時間的・空間的な隔絶感、ひょっとしたら甘えそのものである孤独感とを
超克していくことが可能なのでしょうか?
人間は果たして答えを得ることがあると言えるのでしょうか?
あまりにあまりに弱き存在であるが故、
自らと向かいあい、神とともにあることの遠さを知る。


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2000/12/19


 もっと頭の中を整理しよう。何もかもがグチャグチャになっていく。ムリヤリにでも整理して、楽にならないと。こうしてズルズルと働いていることが体を弱らせ、精神をすり減らすだけならば。もっと肝の座った人間になって、正しいことをとにかく言い続け、やり続けなくては。体が弱れば休む。筋はとにかく通す。人にどう思われようが、言われようが、たとえOさんと同類だとされようが、いいじゃないか。正しいものを正しいとすれば。不貞腐れるのがカッコワルイのはわかってるじゃあないか。誰に文句言っても仕方ない。誰に言い訳しても仕方ない。自分で背負えるものを背負えばいい。どうせ皆にわかってもらえないならば、別に仲良くやっていく必要などない。多少めげてもやっていく。何を?ヒューマニズム?それともサイエンス?自分の中で方向性が定かでない。

 覚悟が足りない。あきらめが悪い。ねばりがない。腹が座ってない。
カナダに行くつもりなら手紙をさっさと書け。特許を書くならそこに時間を割け。制御ロジックをまとめるならきっちりゆっくり考えろ。何が出来るわけでもないのに文句を言うな。仕事辞めるならさっさと辞めろ。口ばっかりで体がちっとも動かない。情けない人間。くやしい人間。

 こんな状態はオレが疲れていることにより増幅されているのは確かだけれど、もともと持っている性格ではある。人間どうにも変われるもんじゃないけど、少しは自分に合った行き場を探さないと。どこへ行ってもここは違う、と言い続けるのならば、確かにいっそ自分で事業でもするしかないのかもしれない。自身があろうとなかろうと。それが生きる道なら。難儀なことで、まったく。


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