倫理の行方―現代を生きるための道標探し

 会社を辞めていつの間にか半年が経った。時間だけがゆっくりと流れた。メーカーで製品開発の仕事に打ち込んできた私の心は磨耗し切っていた。三十路のモラトリアムというのも情けない話ではあるが、腰を据えて自分を立て直す時間が必要だったのだ。とにかく生きるリズムを掴み直したかった。
 順風満帆というふうに私を見ていた人達からは、本当に分からないといった調子で一体何故会社を辞めたのか、と聞かれる。実際のところ、何が不足していたのかを説明するのは難しい。開発と言う、モノを創り出す仕事は充実感を与えてくれた。同僚との間には互いに何度もぶつかるうちに築かれた信頼関係があった。会社からの評価や待遇も上々の部類だったと言えるだろう。にも関わらず心の奥底で何かが噛み合っていないと感じ続けた。得体の知れない大きな流れに、抗いようもなく押し流されている感覚だった。

 私は仕事にこだわりを持っていた。良いものをつくるために不可欠と感じたことに関しては、どんなディテールも大事にした。目の前に現れる問題、その一つ一つの根本的な原因を突き止め、解決をはかろうとした。何しろ経験は浅かったし間違いは沢山あった。それでも直ぐに誤りに気付いて軌道修正できるよう、柔軟さだけは保っていた。ひたすら学び続けた。自分の専門とか担当とかいう枠に逃げ込む訳にはいかなかった。考え過ぎ、やり過ぎと言われることはしばしばだったけれど、細かいことを論って自己主張する気はさらさらなかったし、やるべきことをやるべきと言い、実行しようとしただけだった。仕事は私だった。そんな感覚を共有できる仲間がいた。
 私が携わったプロジェクトは成功が保証されているという類のものでは決してなかった。流行を追って、そして国の補助金をあてこんで始められた事業だった。競争相手も多く、新参の私達が成功するのは容易ではなさそうだった。技術的な課題は山積していた。そんななか「上の人」はいつも過剰なまでにアグレッシブな計画を立てた。皺寄せはいつも現場にのしかかっていた。彼らはモノそのものには大した興味も持っていなかったが、それが他社より優れているかどうかを異様なまでに気にしていた。世間の評判が何より大事なようだった。ドロドロとした社内政治の内幕ばかりが垣間見えた。彼らは彼らで辛いことばかりだとよくこぼしていた。無理は充分承知だがとにかく頑張ってくれ、というような言葉が繰り返された。自分が関わる仕事の行く末がそんな人達に左右されていると思うと堪らなかった。
 だが、彼らを非難する気持に身を委ねてしまった途端、自分の中で何かがガタガタと崩れてしまうように私は感じていた。何がおかしいかを明確に指摘して代案を出せぬ限り、非難の気持はただ空回りして自分を蝕むだけだ。憤る気持、泣き言を言いたくなる弱さを悪いとは思わない。だが、一方で他者や置かれた境遇に甘えながら、同時にそれを責める習性を定着させては駄目だ。そうした態度は自分の限界を覆い隠し、現実的な問題処理能力を失わせる。正面衝突するか、或いは前向きに共にやっていくか、二者択一だと思った。会社と真っ向からぶつかることができる程、私は自分に確信を持てなかった。矛盾は渦巻いたが、自らを奮い立たせて眼前のモノの世界に打ち込む道だけが残されていた。

 開発に取り掛かって一年半、私達は最初の試作品を完成させた。試作品とはいえ、公の試験に供される一種の商品でもあった。限られた時間で作られたモノは、私にはひどく不完全に見えたけれど、客観的に見れば求められたレベルを充分クリアしていた。仕事とは結局こういうものなのだと思った。感慨が込み上げた。張り詰めていたものが一挙に溶け、私は人目も憚らず泪をこぼした。
 そのとき私は一つの仕事を終えたと感じたのだった。やれる限りのことは全てやった。モノが本当に完成するにはまだ長い時間がかかる。だが私がここでこれ以上仕事を続けても、消耗するばかりで得るものが少ないと思った。試作品の完成を区切りに、会社を辞めたいという考えを上司に伝えた。会社はそれに対し、提携先の海外企業への派遣の話を持ちかけてきた。新たな挑戦、気持を切り替える絶好のチャンスに見えた。私は引留めの説得に応じた。
 ところが実際に海外赴任する時期はジワジワと先延ばしにされた。開発のメインストリームから外れ、出荷した試作品のクレーム対応をしながら、私は待った。そんな宙に浮いた時間が積み重なるうち、いつしか私は自分が何かに屈したという感触を拭えなくなっていた。かつて様々な場面で感じていた憤りは虚無感へと置き変わっていった。私がそうして悶々とする脇で、周囲の雰囲気もまた徐々に澱んだものになっていた。スタッフも随分増えて組織は整ったが、個々の仕事は分断され細切れにされた。視界不良のなか、多くの仲間がやるせなさと疲労感に襲われていた。
 一年後、私が本当に潰れそうになっていた頃、ようやく転勤が決まった。再び己を鼓舞して海を渡った。明るいものを見つけようと思った。私はこれまで同様に良いものをつくることにこだわり、ディテールで勝負をした。それを分かちあえる新たな仲間ができた。だが会社の間をつなぐ仕事は、様々な矛盾を輸出入するような仕事でもあった。矛盾は日本だけにあった訳ではなかった。もともとベンチャーとして立ち上がったその会社は、急成長して組織を巨大化させると同時に、新しいものを生み出す力を失いつつあるように見えた。私が尊敬していたエンジニアが何人も会社を去った。ここでも良いものを創ろうとする人達が疲弊し、その場限りのキレイ事を並べる人達が高笑いしていた。先は暗く見えた。もはや窒息しそうな感じから逃れることができなかった。手掛けていた仕事を納得行く形に仕上げ終わると、私は会社を去った。行くあてもないままに。

 自分が本当に元気であり続けるためにはどうしたらよいか。会社を辞めてこの方、私はずっとそれを考えてきた。一体自分は何を求めているのだろうか。金や地位や評判が欲しいなら会社を離れる必要は無かった。安定した生活が欲しいならそれは保証されていた。奇妙な言い方かもしれないが、私は「現実」を生きていたかったように思う。作られたものでない、ナマの生を。ものをつくる仕事はそんな私の感覚にしっくりきていた。緊張感を漲らせて配管のチェックをするとき、私は生の実感を味わっていた。
 自分が元気であるために、人と共に生きていくために、「正しい」ことがあると私は考えていた。原則論などではなく、己の行為が常に従うべき規範として。正しさの感覚は文化そのものとさえ言えるほど、人それぞれに異なっている。当然衝突は避けられない。だがそうした衝突のプロセスは必要なものなのだ。多くの人間が一つの事に向かうとき、そうした正しさの感覚をぶつけ合って互いを磨いていかない限り、良い結果が得られることはない。「正しい」ものを持たなければ、人はただ虚無と不安に追われて踊るだけである。
 世から倫理の感覚そのものが見失われつつある。今はそれを自ら創り上げ、守り続けるしかないのだ。だがそれが確かなものと結びついていなければ、本当に自分を支えることなどできやしない。私が会社で働くうちに「正しさ」を見失い、不安に食われるようになっていたのは、社会に拮抗して立ち続けるに足る根拠を欠いていたからだ。
 宙に浮いた思考、それが私を行き詰まらせた。一心に「正しさ」を追うなかで、いつの間にか自分の身体や感情の在り処さえ見失うようになっていた。意識の内では進むべき方向を分かっていても、心と体がついてこない。長いものには巻かれよ、という態度を決め込む人達に苛立ちを感じたのは、自分自身が潮に攫われ押し流されるのをどうにもできなかったから。生の現実から遠ざかった思考は、糸の切れた凧のようにあてもなく彷徨うだけだった。正しいものは確かにある。だが己さえ制御し得ない者にそれは根付かないのだ。
 生を生きる。飯を食う。歯を磨く。掃除する。空を見る。道端の雑草にふと気付く。通りすがりの人と挨拶する。恋をする。笑う。怒る。泣く。繰り返される日々の小さな出来事は生きることそのものだ。取り戻そう。等身大の自分に帰ろう。様々な関係や出来事によって構成されている「自分」にチューニングし続けるのだ。しなやかに在り続けること。
 この半年、何かがじわじわと自分の中に染みていった。豊かな生の感覚。バックパックを背負って旅に出た。ただ風に身を晒した。パリ郊外の森のベンチに寝そべって初夏の陽射しを受けながら。コーンウォルの断崖の上から砕ける波をぼんやりと眺めながら。ユースホステルで出会った旅人と夕暮れのテラスでビールを飲みながら。そう、私は解き放たれていった。
 忘れちゃいけない。前に進んでいるんだ。時折不安に呑まれて難破しそうになったとしても。慌てない。滅びを恐れても仕方ないじゃないか。ゆっくり何かを創っていけばよい。「正しさ」は生を生きる一貫性のなかから自然に芽吹くはず。自分の存在が社会に順接し、自然に順接している、落ち着いてそう言えるようになりさえすれば。
 ただしっかりと大地を踏みしめていよう。心に笑みを浮かべながら。



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