倫理って一体?

メモ 〜 関連キーワード(視野の先にあるもの)
(個人的な行動基準としての倫理)
 日々を本当に納得行くものとして生き切ることは僕にとって決して簡単なことではありません。だからこそ、生をより豊かなものとしていくための知恵を凝縮したパッケージとも言えるような 「倫理」 の体系 (システム) を必要としています。倫理とはすわなち、自分の
生を喜びとして生きていくための方法知であり、日常のあらゆる場面における行動の判断基準、指針です。それはどこまでも個人的なものであって、各々がそれぞれの生を生きながら磨き、創り上げていくものでなければなりません。自分が本当に納得した上で (少なくとも行動の瞬間には)確信を持って従っていくのでなければ、それは倫理とは呼べないと僕は考えます。これに対してア・プリオリに 「上から」 降ってくる社会規範のことを僕は 「道徳」 という言葉で捉えます。(言葉のセンスの問題ですが、僕はそう使い分けるのがしっくりくると感じます。)
 倫理は 「実践」 されるものです。現実に自分の行動を決定する上で、アクティブに参照される基準です。例えば 「あいさつをすることが望ましい」 という風に思っているだけではそれは倫理とは呼べず、「認識」 の枠を出ない。倫理が倫理として機能するためには、自ら選び取った判断基準に照らして常に自分の行動を制御しようと繰り返し試みるうちに、やがて深く根を張って定着している、つまり習慣化されることが必要です。
 もちろん習慣を形成している規範ならば倫理かと言えばそうではなく、あくまで 「自ら選び取って」 というところが重要な点です。倫理は
「能動的」 に獲得される規範なのです。ここで僕が対置してイメージしているのは、 道徳という文化や環境などの外部要因によって形成された 「受動的」 な規範です。 この 「能動」 と 「受動」 は案外切り分けが難しいかもしれません。本人がその規範を 「誰のもの」 と感じているか、というのが判別の一つのポイントになるでしょう。あるいは 「外から押し付けられている」 というニュアンスがあるかどうか。倫理や道徳は 「〜すべきだ、こうあるべきだ」 という様な表現によって表されますが、それが 「皆がそう考えるからそうすべきだ」 という構造になっている場合それは道徳ですし、「(他人がどう言うか等とは関係なく)自分が納得して生きるためには自分自身はこうあるべきだ」 という場合には倫理の範疇に入ってきます。
 ところで 「〜べき」 という束縛の臭いのする言葉を嫌う人に出会うことがありますが、そういう人は「〜べき等と考えるべきでない」 言い換えれば 「個 (のありのままの欲望) を尊重すべきだ」 という一種の道徳感情を持っていると言えるでしょう。感情や無意識まで含めて分析するとき、人が 「〜べき」 を全く持たずに生きているということはまず在り得ないです。個の欲望はどこまでも解き放たれようとしますので、「〜べき」 という限定・束縛を嫌うのは流れとしてごく自然ですが、逆説的にそれは見えない道徳によって雁字搦めに縛られている状態かもしれないのです。(→ 倫理を通じた自由の獲得)
 一旦そうしたことに触れた上で念のために書きますが、習慣化されて体内に埋め込まれた規範は、自然に身体が動く (或いは反射的に判断する) という風に発現していくわけですから、その段階にあるものに対しては 「〜べき」 という意識を匂わす表現が適切かという問いがあるかと思います。それは規範が 無意識に埋もれた状態と言える訳ですが、それでも何らかの判断基準が機能している以上、僕としてはそれを身体が 「〜べき」 と判断していると捉えて語っていこうと思います。


→  ギリシア的オートノミー 〜 フーコー
   無痛奔流に対する中心軸 〜 森岡正博
   「心ある道」 〜 カスタネダ/真木悠介
   カントの道徳概念
   柄谷行人の倫理概念
   
(価値観と倫理)
 倫理が自分の判断基準・行動指針である以上、それは 「価値観」 と呼ばれるものと密接に結びついています。現代の文脈においては、人はそれぞれの価値観に従って自分にとって望ましい行動をとって生きている、と言われます。ただこうしたケースでは価値観なる言葉はやや曖昧に使われているように見えます。つまり、ある人が物事に価値の優劣をつける基準(体系)を指すというよりは、その人が取る行動に一定の規則(パターン)が見出される場合に、その規則(らしきもの)の集合を指して 「外から」 与える言葉として用いられているようです。つまりは欲望傾向のようなものを表現しているのと近いでしょう。もちろん、そういう形の表現が用いられるのは訳の無いことではなさそうです。多様化した現代社会にあっては他人が何を考えているか想像さえできないことが増え、多少怪しかろうと、とりあえず 「きっと何か考えがあって行動してるんだろう」 とぼんやり推測するしかなくなっているのです。そんななか、言ってみればフィクションとしての価値観を仮定している。民主主義社会では多様な価値観を尊重することになっていますし、それは建前上、様々な立場、主義・主張、理念を持った人間を平等に扱うということです。しかし現実的にはそんなソリッドなものの 「観かた」 というより、個々の人間の感じ方(感性)を尊重する、という形に近づいているのではないでしょうか。そういう意味ではカチカンという言葉は今や価値「感」と表現した方が、言わんとしていることを正確に表しているように思えます。
 さて、僕が 「倫理」 なる言葉を使うとき、それは自覚化された(いわば確信犯的な)行動基準のことを指しています。ここで自覚というとき、それは必ずしも言語化されていることを意味しません。自分の行動を眺め(対象化/相対化)、それを何らかの基準(規範)と比較して指示を出す 「別の」 自分がいる、そんな
自己内部の再帰(フィードバック)構造が存在しているということです。価値観という言葉が使われる多くのケースにおいて、この「自覚」 ということに関してはあまり意識されていないように思います。それでも例えば 「あの人はしっかりした価値観を持っている」 などと言う場合、それはどうやら倫理と関係している可能性が高そうです。倫理観を持つ人、あるいは倫理的であろうとしている人は、外から見ると 「結果的に」 次のような特徴によって認識されることが多いと思います。すなわち、どんな場面でも言動が大きく変節しない(一貫性を持っている)こと、態度を変える時にはそれが明確に意識されている(=言行が一致している)こと、などです。


→  シミュラークル化/スペクタクル化
   超自我/第三者の審級の撤退
   生権力との対峙
   自己言及システムとしての生命

(認識と倫理) →  認識とは何か
(倫理の普遍性)
→  独我論の超克/相対主義・ニヒリズム
(文化と倫理)
→  普遍レベル
(倫理と自由)
→  カントの道徳 〜 実存的自由
(変容する倫理)
→  動的システムとしての倫理/コミットメント
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